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命を取られることは無いから

20数年前の話。

就職氷河期。面接に軒並み落ちた自分は、当時誰でも雇ってくれたコールセンター業界へ就職しました。集団での圧迫面接や、他の新卒との競争は激しく、5対5の面接場面では、できる限り最初に発言の順番が回ってくることを祈っていました。そうじゃければ、先の新卒に圧倒され自分の順番では完全に心が折れた状態となることも多くありました。

コールセンター

 当時、完全買手市場の氷河期時代でした。それ故、新卒を含む20代の若い方がたくさん仕事にあぶれていました。コールセンター業界は、当時から大量採用、大量離職の傾向はありました。常時100名規模の採用を続けていて、最終的に3ヶ月後に残るのは10名以下だったかと思います。でもまだこの業界にも人間性は残っていて、割と単純なオペレーションだったにも関わらず、社会人としての最低限のマナー講習から始まり業務の流れ、OJTまで少なくとも3ヶ月はありました。
今となってはこんな手厚い研修期間ありませんね。当時よりもっと複雑なオペレーションを3日で済ますような企業が多いかと思います。ようは諸々のコストの問題ですね。

 クレーム処理を始めた当初先輩に言われたことがいまでも頭に残っています。「電話なんだから命まで取られることないから!」と。
この言葉は当時、とても心強く、日本全国から寄せられる罵詈雑言・誹謗中傷・支離滅裂かつ荒唐無稽な問い合わせに常に意識していました。
不思議なことにこの仕事は7年ほど続けていました。

 不思議なことにと思うのは、今の自分に対する理解度からするとこんなに多くのストレスにさらされながらなぜ続いたのか・・・という点です。
おそらくですが、顔の無い不特定多数の声はとても自分ごととは捉えにくく、ハードなクレーマーをこなせばこなすほど自分の能力や周囲からの期待値・評価が向上するような高揚感があったのでは?と考えられます。
自分の置かれている組織がクレーマーによってピンチに置かれれば置かれるほどその化け物クレーマーを黙らせたとき・説き伏せた時の達成感は大きかったと思います。

 今思うと、正直大概の理不尽なクレーマーは、我々発達障害と同類だったのかもしれないと思います。
この「命までは取られない」は、その後も大いに役立ちました。仕事で厳しい状況に置かれたときも、どうせ怒られて評価が下がるだけだし、私自身が責任を取るわけではないし、ただいっときだけ矢面に立たせられれば済む話という意味に変換されていきました。このときはコールセンターで電話対応ではなく社内SEとして働いていました。


変化の始まり

 次第に客先へも出向き相手と話をするうちに考えが変わってきました。激昂する上席の相手に対して恐怖が芽生え始めたのです。本当に命まで取られることは無いのだろうか?と。ここで私の考えは直接的な意味ではなく間接的なものに変わります。直接命は取られない、しかし上司からの評価が下がり、会社での立ち位置が変わり、居場所を失うのではないか?さらに居場所を失い、仕事を奪われた自分は仕事をやめざるを得なくなり、社会的に再起不能の状態になるのではないかと。
「命を取る」とはそういう意味かと。
「命まで取られることは無いから」の支えは崩れ去り、一気に気持ちの拠り所、困ったときの頼みの綱はなくなり、仕事でも保守的になり、新しいことへのチャレンジは無くなっていきました。
思い込みの正負が入れ替わったタイミングだったかと思います。


拠り所とは?

 20代〜30代に刻まれたいろいろな「拠り所」となる格言が人にはたくさんあると思います。この格言を実施していくと人によっては棚卸しや見直しが必要になるタイミングがあると思います。なんらかの壁に当たった時、昇進や結婚、子供が生まれるなどのハレのシーンでもありますし、退職や休職、病気、知人親戚の急逝などの負の場面でもあるかと思います。
 正常な脳の持ち主なら、この機会をもとに積み重ね直しが必要でしょうが、当時の私は皆と同じ正常な脳の持ち主ではないという理解が欠如していました。皆と同じような格言は益ではなく、自身にムチ打つような害となってしまいました。しかも本人は気づいていません、世間一般的なポジティブな格言はおよそ「本人の至らなさ」や数少ない成功例を引き合いに出し、ひたすらに競争と影の努力を助長し、「みんなやってるから」の精神論で答えの無いトンネルを進んでいったようなイメージがあります。
 この頃から「永遠に閉じ込められてしまう」ような恐怖心が常につきまとい、何かの拠り所をずっと探していました。
 あらゆる本には明けない夜はないと書かれていましたが、いつ明けるのか、これは夜なのか?本当は明ける・明けないじゃなくて間違った場所や方向にいるだけなのか?ずっとどこかに手がかりがあるのでは?と思っていました。


自分への理解

現在の自分の理解は、年齢とともに自分自身に対する理解も変わるということになります。
 例えば運動能力ってありますよね?筋肉だったり、心肺機能だったりといったもの。誰しも30代も過ぎたあたりから「老い」を感じることがあると思います。若いときには何の苦もなくできていたことができなくなってきます。これは「老い」という考え方もありますが、「初心者」の終わりとも取れます。初心者にはさまざまなサポートが加わります。それは使う道具や
与えられるコースや課題などの面もありますが、体の中もそうです。
 若いころは初心者なので、体に回復機能や自己調整機能が強く働きます。っそして中級者になるころ、挑戦する課題や相手の強度やプレッシャーによって肉体の怪我やメンタル不調などが生じます。
つまり自動調整、制御機能が終了し中級者として自分自身を見つめなおさなければならない段階です。自身の脳が心は自動制御されていますが、行動自身は我々の選択で行われています。その選択と、自動制御機能にズレがおこる場合、なんらかの不調が発生します。

この場合トレーニングの方法や、方向性などを立ち止まって考える必要があるかと思います。自分に合う・合わないを思考錯誤して、競技にフィットさせていくことになります。スポーツで例えましたが、社会生活も似たことが言えるかと思います。自分の生活はどうやったらリズムが取れるのか、どうなったら悪い方向へと進んでしまうのか。
これらは教えられることもありませんし、正解のないものです。

 自己理解を始める時期であるサインと捉え、社会という競技に対応していくには、どういったものが自分に合うのかひとつずつ試していきたいと思います。

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