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オーディオブックで楽しむオバマ前大統領の回顧録(篠田真貴子)

「篠田真貴子が選ぶすごい洋書!」第17回
"A Promised Land" by Barack Obama 
Crown, 2020年11月出版

オバマ前大統領の回顧録 “A Promised Land” を読んでいます。というより、 ほとんどをオーディオブックで聞いています。電子書籍を楽しみに予約して、発売後すぐに読み始めました。ほどなく、英語のニュースメディアや本に詳しい知人などを通じてオーディオブックがいいと知り、聴き始めたらこちらが中心になってしまって、毎日少しずつ楽しんできました。

本書にはびっくりしたことがいくつかあります。まずは、量。ハードカバー版は768ページ、重さ1064グラムだそうです。電子書籍にしておいてよかった……。奥さまのミシェルさんの回顧録も長いと思ったけど、448ページでしたから、オバマさんのはさらに7割増しですね。しかも、前書きによると、これでまだ半分なんだそうです。つまり、上下巻の上巻にあたる、と。内容は生い立ちから、オサマ・ビン・ラディンを暗殺した2011年5月まで、となっています。当初はさらっと書き終わるつもりで構成も考えていたが、書くうちにどんどん長くなってしまったとのこと。

次に驚いたのが、オバマさんは初稿をレポート用紙に手書きで書いていた、ということです。アメリカでは一般的な、黄色い紙に薄い水色で罫線が引いてあるものを使っていたそうなんです。その理由は、初稿からパソコンで書くと、内容的にはまだ粗削りな原稿が見た目だけ完成度が高く見えてしまうからだ、と。この分量を全部手書きしたのかと思うと、それだけで、ちょっとため息が出てしまいます。

いきいきとした情景描写と「アメリカ大統領の苦悩」

量や手書きであったこと以上に、本書では、ひとつひとつの場面で描写が細かくて生き生きしていることが、とにかく印象的です。本のボリュームがたいへんなことになっているのも、人物描写や情景描写が本当に具体的だからなんですね。名前が出てくる登場人物はほぼ全員、出身地、見た目の特徴、人物像が詳細に描かれています。例えば、2008年大統領選の激戦州であるアイオワのスタッフ、エミリー・パーセルさんが登場したところを見てみましょう。

I spent the most time with Emily, who was an Iowa native and had worked for former governor Tom Vilsack. She was twenty-six, one of the youngest in the group, with dark hair and sensible clothes, and diminutive enough to pass for a high school senior. I quickly discovered she knew just about every Democrat in the state and had no qualms about giving me very specific instructions at every stop, covering whom I should talk to and which issues the local community most cared about. This information was delivered in a deadpan monotone, along with a look that suggested a low tolerance for foolishness—a quality Emily may have inherited from her mom, who’d worked at the Motorola plant for three decades and still managed to put herself through college.
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(以下、粗訳です)
エミリーとはいちばん一緒にいた。アイオワ出身で、トム・ヴィリサック前知事の部下だった。チームではいちばん若い26歳で、髪の色は濃く、きちんとした身なりで、高校3年生だと言われても通用するくらい小柄だった。一緒にいてみてすぐに分かったのだが、彼女は州内の民主党員をほぼ全員知っていて、行く先々で誰と話すか、この地域で重要なテーマはなにか、私にまったく遠慮することなく、こと細かに指示してくれた。しかも口調は淡々とし、顔は無表情で、馬鹿馬鹿しいことは許さないと目で語っていた。これはおそらく彼女の母親から受け継いだ性質に違いない。彼女の母は、モトローラの工場で30年働き続けながら自力で大学を卒業したのだ。
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ナンシー・ペロシ下院議長のような、メディアで良く見かける大物政治家についても、

Nancy, in her designer suits, matching shoes, and perfectly coiffed hair, looked every bit the wealthy San Francisco liberal she was.
(ナンシーは、ブランド物のスーツとそれに合わせた靴、髪も完璧にセットして、寸分の隙もないほどに裕福なサンフランシスコのリベラル派を体現していた)

と、ついニヤリとしてしまうほど、的確に描いています。

こんな調子で、訪問先でたまたま話しかけた市民のことも、大物政治家や海外の要人についても、みんな同じように、オバマさんの暖かくちょっとユーモアのある筆致で描写されているのです。そしてこの表現力で、オバマさんの直面したさまざまな課題について、各所との駆け引きや悩みながら判断したことも、活写されています。そして、自分自身については、とにかく内省的で謙虚なのです。そのせいか、読んでいるこちらもオバマさんに感情移入しやすく、非常に難しい判断の場面や理不尽な扱いを受ける場面では、思わず一緒に悩んだり腹を立てたりしていました。オバマさんは、一流の書き手なんだなと、あらためてびっくりしました。

グラミー賞も受賞したオバマ氏の見事な朗読

さて、私は本書のほとんどを文章で読まず、オーディオブックで聴いています。朗読しているのは、オバマさんご本人。実はオバマさん、2005年に自著の“Dreams From My Father”、そして2007年にはやはり自著の“The Audacity of Hope”で、それぞれ朗読でグラミー賞を受賞しているんです。つまり、朗読者としても超一流なんですね。

オバマさんの肉声を通じて、一人一人の人物像や、大統領として見聞きしたり考えたりしたことを聞くと、文字で読んだ時よりも本当に血の通った感じがします。傷病兵を入院先に見舞った時に出会った家族とも、 ホワイトハウスの長官たちやスタッフとも、本当に暖かい気持ちで接してたんだということが感じ取れます。また、敵対する共和党の大物政治家に関する描写も、オバマさんの声を通して聞くと、その人物に対するオバマさんの感情が素直に伝わってきます。政治信条は異なっても人間的には尊敬できる相手もいれば、 オバマさんをしても理解に苦しむような相手もいます。 それぞれを描写するオバマさんの声の調子は、ずいぶん違います。

本書に関しては、特にオーディオブックがいいと感じます。それは、オバマさんの人物描写や自身の心理描写と、朗読者としての表現力が、すばらしく噛み合っているから。しかも自分の回顧録なので表現される感情が生々しく、とても魅きつけられます。ですので、内容が細かすぎてちょっと興味を持てないところも、オーディオブックだと楽しめてしまうんです。

アメリカ大統領は世界に大きな影響を与える存在ですので、日本にいる私たちも日々のニュースを通じて身近に感じています。しかし外交は、アメリカ大統領の任務のほんの一部に過ぎません。当然のことながら、大統領にとっては内政問題のほうがウェイトが高いのです。アメリカに住んでいない私は、アメリカの内政問題にはそこまで深い関心は持てません。政治オタクでもないので、様々な政治家の名前が列挙されても顔まで思い浮かべられる人は少数です。ですので、文字で読んでいたら「この辺りは飛ばしてしまおう」とした箇所も少なくなかったと思います。ところが、オバマさんの朗読だと、全部聞きたくなるんです。声が心地良いので、内容は半分くらいしか頭に入ってこなくてもBGMとしてかけてる部分もありました。オーディオブックだったから、興味を持って聞くことができ、理解が深まったところもありました。

リアルに体感する「大統領になること」

ちょっと話はそれますが、英語圏ではPodcastとオーディオブックが質量ともに盛り上がっているようです。この連載でご紹介した本の中ではマルコム・グラッドウェルの “Talking to Strangers”のオーディオブックが素晴らしいです。ノンフィクションですので、様々な人にインタビューによって構成されている本なんですが、オーディオブックでは、インタビュー時の録音や警察無線の音声が使われているのです。文字で読むよりも迫力があって、まるで長編ドキュメンタリー番組のようでした。マルコム・グラッドウェルは、ポッドキャストの制作会社を共同創業していて、数年前から”Revisionist History”というポッドキャスト番組を制作・配信しています。 ここで培った様々な手法が、オーディオブックに余すとこなく活かされていると感じました。ちなみに、オバマさんの奥さまのミシェルさんの回顧録でも、本人がオーディオブックを朗読しています。こちらもミシェルさんをとても身近に感じることができ、素敵でした。

オバマさんがこの回顧録を書いたのは、記録を残すという目的に留まらず、大統領になるとは実際どういう感覚なのかを読者に感じてもらいたいという狙いもあるそうです。場面場面の描写が具体的であることもそうですが、オバマさん自身の感じる様々な葛藤、怒り、喜び、理想と現実の狭間で判断に揺れるところなど自分の心情についても非常に内省的に書いているのはそのためだと思います。この「実際どういう感覚か」が、オーディオブックではより生々しく感じられました。

私たち一般人は、オバマさんの講演を直接聞くような機会に恵まれることは叶いません。でも、このオーディオブックはまるで講演を29時間聞いてるようなもので、非常に贅沢な読書体験だと感じています。後編はいま執筆中なのでしょうか。いまから出版が楽しみです。 

執筆者プロフィール:篠田真貴子  Makiko Shinoda
小学校、高校、大学院の計8年をアメリカで過ごす。主な洋書歴は、小学生時代の「大草原の小さな家」シリーズやJudy Blumeの作品、高校では「緋文字」から「怒りの葡萄」まで米文学を一通り。その後はジェフリー・アーチャーなどのミステリーを経て、現在はノンフィクションとビジネス書好き。2020年3月にエール株式会社取締役に就任。

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