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「差別化」だらけの現代社会に「タオイズム」が求められる理由(伊藤玲阿奈)

指揮者・伊藤玲阿奈「ニューヨークの書斎から」第7回
老子著 『老子
訳:金谷治 講談社学術文庫 ほか多数

腕におぼえある者が、アメリカのみならず世界中から集まってくるニューヨーク。そこでは常に厳しい生存競争が待ち受けている。まともにさらされて負けてしまうと、ホームレスまっしぐらという場合だって珍しくはない。

ちょうどリーマンショックのとき、同じアパートに住んでいた会社員の女性が、とつぜんに毎朝ゴミをあさりだしたことがある。そこそこ身なりも良かった人なのに、焦点のあってない目でブツブツつぶやきながら、出されたばかりのゴミ袋を開封しているところに鉢合わせたものだから、私は腰がぬけるほど驚いてしまった。

このようなことが普通に起こる街であるから、ストレスとどう向き合うのかという問題がたいへんな関心事になるのは容易に想像がつくだろう。じつに大勢のニューヨーカーが自分にあった対処法を実践している。

そのなかでも根強く支持されているのが、古代中国の哲学思想である「タオイズム(Taoism)」だ。伝説的な哲学者・老子(生没年不詳・前6世紀?)によって創始され、荘子(前4世紀後半ごろ)が完成させたことから、日本ではふたりの名をもじって「老荘思想」と呼ばれる。また、その核心的な概念として登場する「道(みち・タオ・Tao)」という用語にちなんで「道家(どうか)」ともいわれるほか、世界的には「タオイズム」の名前で知られている。

この思想のエッセンスがつまっており、今でも心に苦しみを抱える人々の癒しとなっている書物が、老子が著したとされる『老子道徳経』だ。著者名とおなじ『老子(Laozi)』の通称でニューヨークでも親しまれている。

今回は、ヨーガや禅とならんでニューヨーカーの心をとらえているこの古代東洋の哲学書をご紹介しよう。

「無為自然」の境地が人にとっての幸せ

突然だが、野に咲いている一輪の美しい花を思い浮かべてほしい。種から芽がでてから自然のなかでほったらかしのまま、人の手で育てられたわけでもないのに、その花はどうして美しいのだろう。

タオイズムで考えると、それは花が「無為自然(むいしぜん)」であるからだ。「私を見て!」「私は美しいでしょう?」「私はこんな高級な品種なのよ!」といった自我からくる主張は一切なく、なにも為そうとせず、あるがままに咲いている。ゆえに迫真のエネルギーが放たれているのである。

このような無為自然の状態になることを、老子は「道」と一体化しているとみなす。「道」とは、一言でいえば、すべての根源だ。それは影も形もない存在であるが、影も形もある一切のものがそこから生じて、またそこへ還ってゆく、究極かつ永遠不滅の存在である。その意味では“神”と呼べるかもしれないにせよ、キリストやアマテラスのような人格をもった神ではない。

老子自身は「道」について次のように描写する。

何ものか一つにまとまったものがあって、天地よりも以前に生まれている。静まりかえって音もなく、おぼろげでいて形もなく、何ものにも依存せず、何ものにも変えられず、宇宙のすみずみにあまねく現れていて、休むことなく脈打っている。それはこの世界を生み出す母だといえよう。(第25章より。金谷治福永光司の訳を参照)

解釈はいろいろとあるが、ここでは宇宙の根源生命もしくは根源エネルギーのような存在としてとらえておこう。つまり無為自然である花は、自身を生みだしている母なるエネルギーと一体化しているというわけだ。

老子は、われわれも無為自然に生きて「道」と一体化することを理想にすえた。そのような境地に入ることこそが人間にとって真の幸せであると考えたわけで、それをテーマとして説いているのが本書『老子』なのである

「道」はあくまでかりそめの名称

もともと“道”は知ってのとおり道路を指す言葉である。古代でもそれは変わらず、そこから“真実への道”というニュアンスが生まれ、ゆえに『老子』においては今述べたような宇宙や自然をつらぬいている真実の存在を示すものとして使われている。

しかしながら、先ほどの引用の直後、老子は次のように続けていることに注意が必要だ。

わたしにはその本当の名すら分からないから、仮の呼び名をつけて「道」とよぶ。(第25章より。金谷治の訳を参照)

すなわち「道」とは、実のところいかなる名前でも言い表せない存在なのであり、“かりそめの”名称として仕方なくこのように呼んでいると、老子は読者に注意をうながしているのである。根源生命や根源エネルギーなどと呼ぶことは古代人の老子に考えられないにしろ、それを神と呼ぶこともない。きちんとした固有名詞を与えたほうが読者にしても分かりやすいにきまっているのに、あくまでも便宜的に「道」と“名付けている”とわざわざ断っているのはなぜだろうか。

実は、ここが老荘のユニークな思想を理解するうえで大きなポイントとなる。

名付けることで生じる「無限の差別」

太古のむかし、人間の言語はそれほどに発達してはいなかった。人間の言語活動は、生命や生活にかかわるコミュニケーションから始まったのであろう。それから「木」「マンモス」「嬉しい」「早い」といったように“名付ける”ことで語彙が増えていったはずだ。こうして一定の語彙や使い方が確立されると「○○語」が成立する。したがって古代中国では、言葉や論理について研究する学派を「名家」と呼んだ。

タオイズムが理想とする「道」は、この“名付け”の過程を根源までさかのぼった次元にある。つまりいかなる言葉でも名付けることのできない境地なのだ。いいかえれば、「道」と一体化して無為自然の生き方をするには、「名」の世界にしばられないことが必要なのである。

それは具体的にはどういうことだろうか。老子の言葉から掘り下げてみよう。

真実の「道」は、本来いつも無名であって、名としては表せないもので、それは手をまったく加えていない材木のように素朴そのものだ。(中略)その素朴なものが初めて手を加えられると、そこに道具ができて名がつけられる。そして、すでに名がつけられたとなると、そこから無限の差別が出てくる。我々は、その名を追い求めることをやめて、名をもつものの限界をわきまえるべきだ。その限界をわきまえれば、何事も危なげがない。(第32章より。金谷治福永光司の訳を参照)

たとえば、あるものを見て心おどるような感情が湧いた私たちの祖先が、その気持ちを「美しい」と名付けたとする。するとその時点で、そのような言葉さえなかった素朴な次元から離れることになる。そしていったん「美しい」という言葉ができると、その反対の気持ちをあらわす「醜い」という言葉も必要になって、名付けられるだろう。さらにはもっと細かい違いを表現するために「かわいい」「おぞましい」などといった名付けも発生するだろうし、この名付けによる分化作用はキリがなくなっていく。

要するに、もともとの名さえ無かった素朴な次元を、名付けることによって“分けて(=差別して)”ものごとを理解しようとしているわけで、それゆえに“無限の差別”という表現になるのである。日本語でも「理解する」ことを「分かる」というように、この差別化は「名」の世界に生きていると避けられない。

「名」の限界をわきまえれば「道」へと近づく

しかし老子にとってみれば、これこそが人間を不幸にする元凶だ。

本来は対立も差別もない次元(「道」)であったはずなのに、人間が恣意的に分けることでつくりあげた「名」の世界――これに囚われるから「自分は美しい」「自分は醜い」と人間は悩むことになる。言葉によって差別され、対立を生み出された世界をすべて真実であるように勘違いすることで、人間は迷いはじめるのだ。

どんな美人であっても、それを見て美しいと考えるのは人間だけだ。魚はそれを見ると水底にもぐり、鳥はそれを見ると空へ飛び、鹿はそれを見ると飛び上がって逃げ出す。(『荘子』斉物論篇第二より。金谷治訳を参照)

のちに後継者である荘子はこのように語り、「名」の世界にしばられることの無意味を説いた。ところが現実をみれば、これが人間のさまざまな欲望や自意識と結びついて、本来の自分らしさを失ってしまう者がいかに多いことか。

だからこそ老子が忠告するように、この陥穽におちいって心を病んでしまわないためにも、「名」の限界をわきまえることが無為自然、すなわち「道」へと近づく第一歩となる。

また、それゆえにタオイズムにおいては無知無欲であることが求められる。知識(言葉)や欲望に執着しないことが「道」との一体化(=悟り)の条件なのだ。

それは同時に無為であることを意味する。「人為」とかいて「偽(にせ)」となるように、人間が「名」の世界に執着して人為的に自分の人生をコントロールしようとしても、いたずらに自我を肥大化させて本来のあるがままの自分から離れてしまうのだから(「あるがままの自分」については前回の記事も参考にしてほしい)。

「名」にとらわれがちな現代こそ「あるがまま」の自分を

老子』はヨーガや禅よりも前から西洋で注目されていた。有名なところではレフ・トルストイが『無為』と題された小論を書いている。また、ジョン・レノンのようなヒッピー文化の影響を受けた人々にも『老子』は愛読書となった。その傾向は現在でも変わらないし、むしろ21世紀になっても読者が増えつづけている。

その理由のひとつは、その思想のユニークさであろう。「無欲であるべき」とはキリスト教ふくめ普遍的な徳目であるが、老子は無知や無為であることを良しとし、しかもそれを言語論の観点から述べている。幸せになるために言葉のはたらきを否定することは、「はじめに言(ことば)ありき。言は神なりき」(ヨハネによる福音書冒頭)とする西洋の伝統では出てこない発想であって、そのことが西洋知識人の興味をひいたことは間違いない。

そしてもうひとつの、より大きな理由は、自我を肥大化させながら「成功・失敗」「勝ち・負け」を争うことが義務と化している現代社会に対して、『老子』は強力なアンチテーゼになっているからだろう。そのような社会で生きることに疲れを感じる人々にとって、タオイズムは解毒剤として作用するのだ。これと同じことは、社会の西洋化がいちじるしい我が国にもあてはまる。

満足を知るというその満足こそは、永遠に変わらない誠の満足なのだ。(第46章より。金谷治訳

成績、収入、“いいね”やフォロワーの数……。ますますの“差別化”でつくり出された「名」に一喜一憂している今だからこそ、野花のごとく自分を無為の境地で咲かせてみるのはどうだろう。きっとそこには、あたらしい“道”が生まれている。

追記:私は2020年11月に初となる著作『「宇宙の音楽」を聴く  指揮者の思考法』を光文社新書より上梓いたしました。拙著と併せてお読み頂くと、本稿もよりおもしろく、理解が深まるかと存じます。ぜひお手に取って頂ければ幸いです。

執筆者プロフィール:伊藤玲阿奈 Reona Ito
指揮者。ニューヨークを拠点に、カーネギーホール、国連協会後援による国際平和コンサート、日本クロアチア国交20周年記念コンサートなど、世界各地で活動。2014年に全米の音楽家を対象にした「アメリカ賞(プロオーケストラ指揮部門)」を日本人として初めて受賞。講演や教育活動も多数。武蔵野学院大学SAF(客員研究員)。2020年11月、光文社新書より初の著作『「宇宙の音楽」を聴く』を上梓。個人のnoteはこちら
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