ウクライナ戦争について個人的に思うこと

 ウクライナ戦争について思うことを少しだけ。といっても専門家でもないし、時期も少し逸した感があって、書くことに少し気も引けるのだが、ちょっと吐き出してみたくなったので。
 今回の戦争で改めて思ったのは、パレスチナ紛争や北アイルランド問題もそうだが、第一次大戦の戦後処理の問題が100年以上も経った現在でも尾が引いているんだなということ。もちろん問題自体はもっと遡るものなんだろうが、直接の影響を及ぼしているという点で、第一次大戦後に作られた国家秩序は、もっとうまくできなかったのだろうかと考えさせられる。
 第一次大戦の後にヨーロッパで新たに独立した中央ヨーロッパの国は、北からフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、チェコスロバキアの6国(アイルランドはここでは扱わない)。これらの国に、国家としては戦前から存在していたが、新たな国家体制となったハンガリー、ユーゴスラビアを加えた8国を地図で眺めると、ドイツとソ連(ロシア)の間に北からきれいに並んでいて、その当時の政治用語であったコルドン・サニテール(もともとは疫病の伝染を防ぐためのロープという意味だが転化して、ソ連が意図する世界革命という名前の疫病から西側世界を守るための緩衝国群という意味で使われた)という言葉の意味がよくわかる。
 学校の歴史では、当時のアメリカ大統領ウィルソンが唱えた民族自決の原則に則ってこれらの国が独立したとして片付けられがちだが、個々の国を見るとそんなに単純な話ではない。そもそもウィルソンが十四か条の平和原則で独立を要求したのはポーランド(及びベルギーの独立維持)だけで、その他の国については具体的な言及をしていない。また、第五条の「民族自決」という原則についても、主権が民族にあるという意味ではなく、これから独立する国には民主的な国家体制が望ましいという意味合いである(他民族が支配層であった場合、民主体制の国家ができると「民族自決」になるのだろうが、この地域だけでなく、ヨーロッパは民族が入り混じっているので、そんなに単純な話にならない。仮に純粋な意味での民族国家を作ろうとしたら「民族浄化」をしなければならなく、このことが様々な悲劇を生んでいる)。
 そういうわけで、第一次世界大戦後に独立した国をみても、もちろん民族主義が重要な要素であったことは否定できないが、歴史的な地域一体性という「国」としてある程度の形、前提条件を持っていた地域が独立を果たした側面を無視することはできない。以下にそれぞれの国について独立に至った事情を簡単に見ていく。
 フィンランドは歴史的に長くスウェーデンの領土であったこともあって現在でもかなりの数のスウェーデン人少数民族を抱えているが、民族間で分裂することもなく一つの国家として独立した。これはフィンランドがロシア帝国の中にあって同君連合のフィンランド大公国としてすでに国家としての受け皿を持っていたことが大きいと思う。
 エストニア・ラトビアも、フィンランドのように自治国としてではないが、バルト沿海三州としてロシア帝国の地方行政で特別な位置を持っていた(エストニア・リヴォニア・クールラントの三州の内、リヴォニアが民族分布で分割されエストニア・ラトビアが誕生した)。フィンランドと同様、この地域も民族構成は複雑で、ドイツ人やロシア支配時代に移民してきたロシア人も多数いたが、民族間で分裂して独立するということはなかった。この点ではやはり、ロシアに併合される以前も「リヴォニア地方」としてドイツ騎士団、スウェーデン、ポーランドと支配国が変わることはあっても、歴史的な地域一体性を保っていたことが大きいと思う。
 リトアニアについては、地域行政的にロシア帝国に完全に組み込まれており、国家の受け皿となるような組織があったわけではなかったが、リトアニアを占領していたドイツが第一次大戦末期に作った傀儡国家がその役割を果たしたといえる。ただ、リトアニアは他のバルト諸国と違って、独立国であった歴史があり、第一次大戦後に作られた国は、その復興という意味合いがあった。しかし、ポーランド分割以前のリトアニア大公国がそのまま引き継がれたわけでなく、リトアニア人が多く住んでいた「原リトアニア」と呼ばれる歴史的地域が国境の大枠となった。
 逆にスロバキアは歴史上、常にハンガリーの一部で、歴史的な地域一体性を保っていたわけではない。その点で、中世以来ハップスブルク家の同君連合のボヘミア王国として存続していたチェコとは異なる。とはいえ、チェコは、オーストリア・ハンガリー二重帝国の中にあってハンガリーのように半独立の地位を占めていたわけでなく、戦後ただちに機能するような国家組織はなかった。国家の受け皿となったのは、戦争時から連合国側に承認されていた亡命政府で、その亡命政府が戦後に権力を握ることによって独立国家へと移行した。しかし、国の母体となったのが、実際の民族分布とは関係ない、歴史的地域としてのボヘミア王国だったのに、ハンガリーの領土であった、上ハンガリー(スロバキア)及びカルパティア・ルテニア(東スラブ人のルシン人・ウクライナ人の居住地)を戦後の混乱時に占領して、スラブ人の国家と言う国家理念を掲げた点に、チェコスロバキアの国家建設の矛盾があったと思える。チェコ人・スロバキア人の民族主義は少数民族だったドイツ人との対立を招き、第二次大戦が起こる大きな要因の一つとなった。
 ハンガリーは、第一次大戦の敗戦時にオーストリア・ハンガリー二重帝国が解消したことによって、半ば自動的に独立国となった。直後に起こったハンガリー・ルーマニア戦争によってトランスシルヴァニア地方(ルーマニア人が住民の多数派であったが、伝統的にハンガリー人・ドイツ人が支配者層であり、ハンガリーとの結びつきが強く、独立国だった時期もあった歴史的地域)がルーマニアに奪われ、さらに上述のように上ハンガリー(スロバキア)もチェコスロバキアに占領され、既成事実を追認する形で連合国との間でトリアノン条約が結ばれ領土が確定する。第一次大戦後に誕生した国ではハンガリーは唯一「敗戦国」として領土の割譲を受け入れさるをえなかった国である(フィンランドも独立に続くロシアとの戦争で領土を割譲しているが、第一次大戦の敗戦国ではない)。ハンガリーが、現在でも民族主義の声が強い、EUの中でも異端の国であることは偶然でないように思う。
 クロアチアはオーストリア・ハンガリー二重帝国の枠組みで半独立をしていたハンガリー王国の中で半ば独立した位置を占めており、単独で独立を目指す勢力もあったようだが、最終的には既存のセルビア王国と合併する形となった。逆にスロベニアは、歴地上常にオーストリアの一部で、それまで独立国家であったことはなかったが、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に参加する形で独立を果たす。これに加えて、オーストリア・ハンガリー二重帝国との係争地で、第一次大戦の直接の原因となったボスニア・ヘルツェゴビナを新たな領土とすることで、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後にユーゴスラビア王国に改名)が誕生するが、王家がセルビア王国の王家であったことからもわかるように、実質的にはセルビア王国が領土を拡大した結果となり、特にクロアチアとの摩擦が残り、1990年代のユーゴスラビア紛争の遠因となる。
 ポーランドは、第一次大戦後にできた中欧の新興国では領土確定が一番遅れた国である。西側のドイツとの国境は神聖ローマ帝国時代からの歴史的な国境線が大枠となって、係争地は住民の投票によって帰属が決定されるという形になった(実際にはポズナン地方(いわゆる大ポーランド地方)のドイツ人住民との内戦が停戦した後に形成された軍事境界線が国境となり、歴史的な国境線とはずれている)。東側のロシアとの国境としては、連合国側から民族分布によって考案された「カーゾン線」が提案されたが、当時ポーランドの指導者だったピウスツキは、複数民族が共存していた旧ポーランド・リトアニア共和国の復興を目指しており、ポーランド=ソビエト戦争が起こった。その結果、旧ポーランド・リトアニア共和国時代の領土が回復されることはなかったが、西ベラルーシ・ウクライナのガリチア地方がそれぞれポーランド領に組み込まれることになった。
 このように見ていくと、民族主義はそれぞれの国家建設の重要なファクターにはなっていたものの、「民族自決」という理念が唯一の決め手となったわけではない。後に独立することになる、スロバキア、スロベニア、クロアチア(さらにはボスニア・ヘルツェゴビナ)も第一次大戦後に単独で独立を果たすことはなかった。
 これまで、学校の歴史で取り上げられる第一次大戦後の中欧の新興独立国について書いたが、実を言うとウクライナとベラルーシ(及び地理的にヨーロッパに属するか微妙だが外カフカス)も同時期に新しく国家を作っている。ウクライナ・ベラルーシ・外カフカス(ザカフカス)、それにロシアを加えた4つの社会主義共和国が形式的には対等な立場で連合してできたのがソビエト連邦で、それぞれの国は自由な意志で連邦を脱退することができることが連邦結成条約で定められていた。実際に1991年にソ連が崩壊したのも、形式的に見ると、構成国であったロシア・ウクライナ・ベラルーシが連邦を離脱することによってであった。
 また、上述のポーランド=ソビエト戦争の講和条約も、締結国はポーランドとロシア及びウクライナであり、さらに第二次大戦後には国際連合にソ連の他にベラルーシと並んで加盟国として名を連ねるなど、ウクライナは名目上は独立国家であった。したがって、ウクライナ(及びベラルーシ)は、第一次大戦後から形式的には独立国として継続しているという見方も成り立つ。
 第一次大戦後のウクライナの国の成り立ちを見ると、リトアニアとかなり似ている。両国ともポーランド分割前のポーランド・リトアニア共和国の一部であったこと(もちろんウクライナ東部・南部はその当時ウクライナには含まれていなかったが)、ヴィリニュス(リトアニア)・リヴィフ(ウクライナ)といった旧ポーランド・リトアニア共和国の文化的中心地であった大学都市が両国にあること、ドイツの占領時にドイツの傀儡国家が作られたこと、など。また、ヴィリニュス・リヴィフの両都市とその周辺地域が戦間期にポーランド領になったものの、ヒトラー・スターリン秘密協定によるポーランド分割の後、それぞれの国に組み入れられたことも共通している。
 リトアニア・ウクライナとも独立の後、ボリシェビキによって社会主義の対抗国家が作られた。図式的にみれば、その対抗国家を擁した赤軍に占領されなかったリトアニアは独立を保ち、逆に占領されたウクライナは実質的にロシアの「属国」になったといえる。この見方をとればウクライナは、リトアニアに対してポーランドが(ポーランド=ソビエト戦争によって)間接的に果たしたような外部からの協力を得られずに占領されてしまった悲劇の国家という考えも成り立つ。
 ただ、リトアニアとウクライナの国家成立にはもちろん違いがあることも事実である。特に個人的に大きな違いであると思うのは、先行国家があったかどうかという点である。リトアニアには、先述のように中世からのリトアニア大公国という存在があった。それに対してウクライナの歴史観では、17世紀から18世紀にかけて存在したいわゆるヘーチマン国家をウクライナの先行国家としてよりどころとするが、実際にこれが「国家」であったかどうかは議論のわかれるところだと思う(ヘーチマン国家の存在がウクライナの民族意識に影響を与え、その復興が国家理念になったことは疑いがない。しかし、それはヘーチマン国家が客観的に国家と見なしうるものかどうかとは別問題である)。
 もう一つの違いといえるのは、第一次大戦以後に独立を宣言した国がウクライナには複数あったことだ。1917年11月に建国されたウクライナ人民共和国と1918年11月に独立を宣言した西ウクライナ人民共和国は、両国が1919年1月に合併されるまで短期間であったが並存していた。この二つの勢力は統一した後も、ポーランドや白軍への対応方針で対立があったようで、一枚岩とはならなかった。さらにボルシェビキ側もウクライナ・ソビエト共和国(のちのウクライナ社会主義ソビエト共和国)に統合されるまで、ドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国(ウクライナ東南部)、オデッサ・ソビエト共和国(オデッサ周辺)、タヴリダ・ソビエト社会主義共和国(クリミア半島)といった3国が乱立していた。さらに、ロシア内戦の際には大ロシア主義の白軍やアナキストの黒軍といった勢力が入り乱れていたため、ウクライナの民族派が軍事的優位を得る望みは薄く、結果的に赤軍がウクライナを支援したポーランドをキエフから追いやる形になった。このように、独立を維持したリトアニアに比べてウクライナが「不運」であったというより、独立勢力を結集できなかったことに運命の分かれ目があったように思えてならない。
 こうして、ウクライナが真の独立国家を持つまでにはソ連崩壊まで待たなくてはならなくなったのだが、ウクライナの例は、民族を求心力にして国家を作ることの難しさを表しているように思われてならない。これはウクライナに限ったことではなく、例えばチェコが第二次大戦後に「チェコ人の」国家をつくるためには、少数民族(とはいっても全人口の3分の1ぐらいいたわけだが)のドイツ人が強制的に追放されなくてはならなかった。またユダヤ人迫害も民族主義の高まりと無関係ではなく、ロシア内戦の際、ウクライナの地でユダヤ人を最も多く虐殺したのは赤軍ではなく実はウクライナ軍であったらしい。第二次大戦のときには西ウクライナでポーランド人の虐殺(ポーランドではウクライナ人の虐殺)が起こっており、今はポーランド・ウクライナ間では領土紛争はないものの、そのような関係になるまでに「民族浄化」があったことを忘れてはならない。
 さらに難しいのは民族の規定である。民族と言語は密接な関係にあるが、ウクライナ語とロシアの関係はかなり複雑なように思われる。例えばドイツ語とオランダ語は二つの完全に異なった言語として扱われていて、ドイツ人とオランダ人も異なった民族と見なされているが、低地ドイツ語はオランダ語と近いにもかかわらず、そのような扱いを受けていない。これは、オランダが早くに独立国家となり、オランダ語が早い段階で文章語として確立したことと関係しているように思われる。ウクライナ語も20世紀に至るまで、(低地ドイツ語と同じように)独立した言葉とは見なされておらず、相互理解は困難なものの、方言としての扱いだったらしい(これは日本語と琉球語の関係にも近いのかもしれない)。ウクライナ語をロシア語から自立させる運動が盛んであったのは、民族主義の拠点であった、オーストリア領ガリツィアだったとのことだ。つまり、低地ドイツ語とオランダ語の例のように、近縁の言葉と区別されて独自の「民族形成」が行われるには、政治体制も多分に影響していたように思われる。全く異なる言語が公用語であったオーストリア領にウクライナ語使用グループがいたからこそ、ウクライナ語が独自の言葉として認識され民族意識が確立されたのであって、もしウクライナ人全てが言語の近いロシア領に住んでいたとしたら、(琉球語話者や低地ドイツ語話者のように)独自の民族とならなかった可能性もある。
 今では、ウクライナ人の多くは、ウクライナ民族としての意識を持っているのだろうが、ロシア革命当時は、ウクライナに住む人の中には、大ロシア・白ロシアと並んで全ロシアを形作る「小ロシア人」としてのアイデンティティを持つ人もかなりいたらしい。このよく言われる「三位一体のロシア民族」という考え方はロシア帝国の国家イデオロギーであったらしいが、もともとはウクライナ人の中から生まれた考えであったららしい。長くポーランドの支配下にいたウクライナ人がロシア帝国に属するにあたって、(大)ロシア人との民族的一体性を強調するためのものであったようだ。この「小ロシア」というのでよく引き合いに出されるのが大作家であるゴーリキーであるが、独自のアイデンティティを保ちつつも共通語であるロシア語を文章語として用いるというあり方は、ロシア帝国時代には珍しいことではなかった。
 プーチンがウクライナには固有の国家の歴史を持っていなかったと戦争を始める際に言ったことを、多くの人が非難していたが、以上のことをふまえるとあながち無碍にすることはできないように思える。少なくとも今のような「民族」を前面に押し出した国家体制というのは第一次大戦が終わるまでなかったし、その後にできたウクライナ人民共和国も結局は存続できなかった。複雑なのは、このウクライナ人民共和国は亡命政府として1990年代まで継続して存在しており、1992年に現在のウクライナに権限を委譲して幕を閉じたということだ。こうして、現在のウクライナはその後継国家ということになっているが、一方で当然のことながら、ウクライナ人民共和国亡命政府が存在していた時代には、ウクライナ社会主義ソビエト共和国が並立して存在しており、現在のウクライナはそれの継承国家でもあり、国境などを受け継いでいる。このように現在のウクライナは「民族」を国家理念としたウクライナ人民共和国とロシアとの協調(あるいは服属)が最優先されたウクライナ社会主義ソビエト共和国という二つの異なった世界観・歴史を引き継いでおり、その葛藤が今の戦争の遠因になっているように思えてならない。
 個人的には「民族」を理念とした国家作りというのは非常に危険で、それが第一次大戦後の国家体制が特に中欧・東欧で不安定なことの主要な原因になっているように思う。そもそも現在の国家体制の基本となっている考えかた、特に主権の不可分性などは、19世紀に民族主義が盛んになる遥か前に作られたものであり、民族国家を想定したものではない。だから「民族」を国家理念にしようとしたら、そこにコンフリクトが生まれるのは当たり前であり、色々と妥協点を見つけ出さなければいけない。そのときにはロシアを対等の会話のパートナーとして受けれることが不可欠で、誤解を恐れずに言えば、現在の欧米の人たちに往々にして見受けられるロシア文化への蔑視が、今回の戦争を間接的に引き起こしたように(ロシアとの対話を不可能にしたという点で)個人的には思っている。

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