都庁安倍課~金曜日はHAPPY

 山田課長は淡々と仕事をこなす。定時出社、定時帰宅。管理職としてはこの上ない待遇である。彼は自分の処遇になんの不満もない。
 妻と二人の夕食。妻は庭木についてぽつりぽつりと話す。山田はうんうんと頷く。特に多弁なわけではないが、話をしないわけでもない。よくある50代後半の夫婦だ。
 2年前、前立腺がんのため摘出し夫婦の関係はないが、その遥か以前からそのようなことは無かったし、自分でもそんなものだろうと割り切っている。妻も同じだといいのだが。
 幸いにも特に不満には見えない。それどころか、少しでも体に良いよう、手作り味噌や無農薬野菜を選んで料理してくれる。妻のためにも定年まで生き続けて、遺族年年金が支給されよう山田は願っている。いたって良好な関係の、熟年夫婦である。

 食後、自分の多くはないが預金、残ると処分に困るような遺品整理を淡々とこなす。医師は大丈夫と言っているが、本当のところは分からない。わざとそう言っているのかもしれないし、突然の体調変化もあろう。いきなり体が動かなくなると、家族に迷惑がかかる。彼は職場でも家でも、ひっそり淡々と典型的昭和の日本人サラリーマン(寡黙系)として生きてきた。
 以前の職場は中堅の電機メーカー。ガンサバイバーが34万人を越す現在だが、たとえ彼のように職場で静かに豆まめしく働くタイプであっても、継続して働き続けることは難しい。もっとも彼は自分の考えを表情に出さないので、不満か満足か誰も分からない。
 隣の部屋でラーメンをすする音がする。彼の息子である。3日前、トイレに行った時すれ違ったきりである。やや青白い顔をした、いわゆる、引きこもりなのだ。
 引きこもりは甘えだ、厳しくといった精神論は意味をなさない。父親が病気になったからといって、治るわけではない。あの子の事は死ぬ前になんとかしなければ。妻にだけ苦労を残すわけにはいかない。

 翌日、山田は職場を前半休にして検診に向かった。最近は血液検査を受けて1時間で検査結果が出るので、正に最新のデータを元に医師と診察を受けられる。医学の進歩はすごい。
 山田が時間つぶしに喫茶店に行くと、見慣れた顔が見えた。声をかけようとした山田は、その手をすぐ下げ、観葉植物の後ろに身を隠した。あれはまさか……。壁際の絵のそばのテーブルに座っているのは妻の久子だった。妻が喫茶店にいることぐらいは何の問題もない。問題は、向かいが若い男だということだ。
「じゃあこれで」
 なにやら分厚い封筒が妻の手から若い男の手に渡る。30代、働きざかりといったところか。まだ歯は入れ歯では無い。それどころか白髪すらない。一体あれは何者だ。

 山田は帰路薬を受け取り忘れたことに気が付き、再び病院を訪ねてから家に戻った。
「お帰りなさい、今日は遅かったわねえ。」
 妻はいつもと変わらず夕食の準備をしている。しかし、そのいつもの夕食が、自分にとっていかに幸せな時間であったか山田は気がついた。
「久子、今日どうしていた。」
 久子は箸をとめて山田を見つめる。その視線が痛い。
「珍しいわね、あなたの方から質問なんて。あなたこそどうだったの?」
「あ、検査結果?いつもと変わらないよ。」
「そう?」
 久子は煮物の芋をつまむ。あかん、これで会話が終わってしまう。山田は人参をほおばりいつもより長く咀嚼する。妻と会話がなくなったのはいつからか……昔からだ。今度は牛蒡を噛み砕く。山田は久子が若い男と話すときに見せた、生き生きとした表情を思い出し、暗澹とした気持ちになった。タブレットなんかいじって嫌味な奴だった。

 妻の外出日は分かり易い。前日に衣服の準備をして、アイロンをかけておくのだ。もちろん山田のスーツも、同じように毎日準備されている。バレバレではないか。その妻が、まさか……。

 妻が衣服の準備をした翌日、発作的に職場には急な検査が入ったと連絡し、いつの間にか妻を尾行していた。俺は何をやっているのだ。ばかな、と思いつつ先日の喫茶店に再び入る妻を見て、山田は動揺を隠せなかった。あの若い男と話している。山田は意を決し、肩をいからせて出来る限りの威厳を保ちつつ近づいていったー。

「しゅ、出版?」
「久子さんの、ブログでの株予想は大人気なのですよ。なんと言っても説明がいい。素人にも分かりやすい理論を駆使されている。ここ数年は英訳もされているのです。それで、ぜひ出版をと依頼を持ちかけました。」
「ほめすぎですよ、編集長。それに英語は息子が……。」
 久子は誇らしげに、ほんのり頬を赤らめた。
「お前、確か大学は文学部だったよな。」
「ええ、文学部図書館情報料よ。」
 勉強熱心な彼女は、最新の図書館情報学のプログラムを学びなおし、ブラッシュアップしている。そのプログラムは学際的であり、情報科学や旧来の図書館学の領域のみならず、様々な社会科学や統計学、システム分析などの領域と重複する。そこから株に結びついた。
 ここからは息子の入れ知恵で、最新のエコノミストというふれこみでブログをアップした。当初は戸惑っていた久子だが、閲覧数が増えるにつれ段々乗り気になり、息子は更に翻訳し、今ではいっぱしの有名ブロガーとなった。

「お前達、いつから株式取引をしていたのだよ。」
 ダイニングテーブルにて久しぶりに親子3人が会した。
「5年くらいまえかな、リーマンショックがひと段落してから。私って小心者だから、はやっているときには飛びつけないの。」
 株式取引としては最上のタイミングではじめたのだ。そして息子は米国の株情報を仕入れる作業をし、時差ボケで昼間寝ている。更にブログの翻訳が縁で息子はブログ仲間の友達が出来て、2ヶ月月に1度くらいは皆で会食するらしい。
「外に出ると、隣のおばさんにぎょっとされるけどね。」
 息子は苦笑交じりに話す。
「いいじゃない、貴方がたのしければ。」
 久子はゆったりとした口調で話す。
 時々コンビニにもいっていたらしい。また、言葉に対する感度が鋭い(がゆえに寡黙)、繊細な彼は絵本の翻訳を頼まれるようになり、最近ではファンクラブがネット上にあるそうだ。山田の知らない世界である。
「何で今までいわなかったのだ!」
 山田は喜ぶべきか怒るべきかもう分からなくなり、混乱で頭を抱えながら聞く。息子は頭をかきながら、
「いや、別に隠していたわけではなかったのだけれど、タイミングを逃しちゃって。」
「そうなのよね、家族だと、つい。」
 久子が息子の肩に手を添える。段々腹が立ってきた。
「でも翻訳の世界は難しいだろう?今自動翻訳とかいろいろあるらしいし。」
「いや、だからこそ、人の手を解した血の通った言葉が大切なのだよ。心配かけてごめん。でもちゃんと生活成り立っているよ。貯金もしている。ひきこもりのときは落ち込んでばかりいたけど、もう昔の話だよ。今は彼女ができて、あ、彼女はタスマニアで研究しているので、ちょうどリアルタイムでメッセージ送っているよ。」
 か、彼女なんていたのか?じゃあ、俺の心配は。いやそもそも俺の存在意義は……。

 肩を落とす山田を見かねて、
「ねえあなた、あなたがいてくれるから、私好き勝手に出来るのよ。あなたが病気になったから、自立も考えることが出来たわ。だって、皆与えられた環境で、幸せでいるようにしないと、ね?」
 晴れやかな笑顔で久子は言った。そうだ、この笑顔に一目ぼれしたのだ。イタリア語のセレーノという言葉「静かに晴れた、澄み切った、のどかな、晴朗な」にぴったりな……そういえば俺も学生時代翻訳家に憧れていた。

「大分貯金も増やしたし、あなたは何も心配せず、療養に専念してもいいのよ。」
「は?」
 山田は目が文字通り点になった。
「辞めても大丈夫よ。でも仕事があったほうが生きがいが。」
 立ち上がって山田は言った。
「あたりまえだ!働くことは生きる事だ!それに、俺は一家の大黒柱だと思っていた、のに……。」
 項垂れる山田におずおずとお茶を出す。
「ごめんなさい、言い遅れたのは、心配を駆けたくなくて、その……。」
 息子が母の肩に手を添える。
「おいおいお袋ばかり責めるなよ。親父だって俺のこと、引きこもりと決め付けていただろ。単に生活時間帯があわなかっただけなのに。そっちの方がひどいぞ。」
 山田が口を開こうとすると、
「あなたは馬鹿ねえ。大体貴方の場合、前立腺肥大症で見つかったから、がんのステージも上がらず、予後なんて100パーセントなのよ。こういってはなんだけど、病気前は同僚と焼肉食べ歩いたり……。いいわ、今更言ってもしょうがないわ。」。
 段々雲行きが怪しくなて来たので、山田はもう黙ることにした。しかし今夜は珍しく話したな。
 明日は、行かないとな、職場に。

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