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この表現を個性と呼ぶなら

こんばんは、卯月螢です。
自分の感覚と向き合いながら、絵や詩や文章を制作しています。

曳舟のgallery hydrangeaで行われていた「花に囁く物語Ep.3 」本日最終日でした。作品は7月末までギャラリーのサイトに掲載されますのでリンクを最後に貼っておきますね。

梅雨に入って雨天、湿度の高く気分も低迷です。
天気と一緒に気分も変わるとは、興味深い気質です。
昔は気圧で、周りの様子で、家族の機嫌で振り回される自分に嫌気が差していましたが・・自分の気持ちを感覚を絵に残そうと決めてから、
自分を振り返り見るようになったので
「ああ・・雨だ、この気分で落ち着くのは素直に雨の音を聴く事だ」
と、雨の音を聞きながらこの感覚をどう記して残そうかと考えたりしています。

私の絵は先ず「分からない」「怖い」と言われる事があって、言われても仕方ないか・・と思う事もありました。頑張って楽しく思えるような絵など描いてみようとしたのですが、借り物の感情なので手が全く進まず諦めました。正直、楽しいが良く分からないので無理だと・・その感覚に覚えが余りないので描けないのだと思います。
覚えが無いので「言葉」でAIに言って描いてもらっても未来永劫納得はしないし「自分なりの楽しい感覚」を分からずに終わりそうな気がします。

幼少より「分からない」と距離を置かれ自身も他人から離れて生きて来て、
なのに人の感情を感じて自分の事のように勘違いしてしまう日々。
仙人の生活が出来る訳もなく、社会生活で孤立感を抱えながら傷つく日々もありまして、単純に楽しさが分かるはずもないかと思うのです。
でも、自分の感覚と向き合って過去の気持ちと面談をして、その悲しい過去の中に微かな優しい気持ちなどを気付けたものですから、今のような表現にならざるおえないかとも振り返ります。
この表現を「個性」と呼ぶのなら私独自の個性でしょう。

「綺麗で汚い、汚いは綺麗」という芝居の言葉もありますが、綺麗に咲く蓮の下は泥ですし、麗人の足下にも黒い影があって、綺麗な事だけで存在するものは無い様に思います。
光と影は表裏一体で、些細な事を美しいと感じられるのは悲しい事が後ろにひっそりと見えない記憶としているからかもしれません。

今回の作品「茨のガーゴイル」も嫉妬や歪な感情から解き放たれて、自由に飛んでくれることを描き終わって感じました。
前回の作品も、悲しい過去から解き放たれる吸血鬼を描きました。

まだ表現的に足りない事があって、言葉にするには向き合いきれない記憶がありますが、何かを白い紙の上に表してゆく過程には
「自分の感覚と向き合いその時点で出来る限りの事を真摯に表現しよう」と思っています。

今日も少し声の調子が悪く(低い・・だいぶ)声とするには作業的に難しい事でしたのでblogで描きました。

次回展示参加は秋ごろになります。
その前にnoteで何かできればと考えています。

卯月螢でした。

「茨のガーゴイル」

「散花のころ」

「花に囁く物語Ep.3 」


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