織田信長から松平信康に対する偏諱授与を「敢えて疑う」


序論

 松平信康は徳川家康の嫡男として永禄二(1559)年三月に駿河にて誕生、織田信長の娘である五徳を妻とし、元亀元(1570)年八月に元服したとされる(『松平記』『浜松御在城記』等、黒田基樹 (1) は元亀二(1571)年八月の出来事と推定)。元服に伴い、岳父信長の「信」、実父家康の「康」を取って実名「信康」を名乗った。
 上記の事実から「信康」の「信」は信長からの偏諱授与として説明される場合が多い。偏諱は諱の一字を指す言葉であり、武家社会においては、元服の際に烏帽子親から烏帽子子に対して偏諱が賜与される事例、将軍などの上位権力からの偏諱授与の事例などを確認することができる。これらは擬制的血縁関係の構築、主従関係の強化などといった側面を有する。
 このような偏諱授与が有する側面から、松平信康が岳父信長から授与された「信」の位置を上字にしていることを根拠として、当時の家康が既に信長の従属下に入っていたという近年の指摘がある(黒田2023)。ただし、この時期における信長と家康との関係について、下記の二点より両者を対等の関係であったと考察する平野明夫 (2) の見解もあり即断は注意を要する。

・書札礼の変遷から両者は当初対等の関係にあり、天正三(1575)年頃から家康が「天下人」信長に従属する関係へと変化していったと考えられること
・元亀争乱期における徳川氏による織田氏への軍事援助は足利義昭を介する必要があった、すなわち、信長と家康は足利義昭政権において対等の関係であったこと

 それでは、「松平信康の『信』は織田信長の名前から取った」という事実は、織田氏と徳川氏との関係において如何なる意義を有していたのか。さらに、本稿では敢えて穿った見方をしてみたいのだが、そもそも松平信康の「信」は信長からの偏諱授与であったのかを考え直してみたい。

 織田信長からの偏諱授与に関して、一次史料から確認できるのは長宗我部信親の事例のみである (3) 。その他には近衛信基 (4) や鷹司信房といった公家衆や細川京兆家の当主・細川信元(六郎、昭元、後に信良)への偏諱授与が行われたと推察されている。これらの事例はいずれも義昭追放後に足利将軍家が有していた権威・権限を織田権力が担いつつある、もしくは担うようになった時期に行われた。松平信康に対する偏諱授与が実際に行われたとするならば、信長から他の戦国大名に対する最初期の偏諱授与として評価することができる (5) 。

 偏諱授与を取り上げた諸研究に関して、戦国期の足利将軍家による栄典・諸免許授与の一環のなかで考察する二木謙一 (6) や足利将軍家による公家衆・僧衆への偏諱授与から室町期の政治秩序の形成を考察する水野智之 (7) などが挙げられる。また、戦国大名による偏諱授与に関して、一字書出や官途(受領)挙状を考察する上で加藤秀幸 (8) が一部触れていたり、加冠状・名字状の残存状況から大友氏における家臣団内の家格秩序を考察する中で大塚俊司 (9) が言及している。甲斐武田氏の研究において偏諱を受けた家臣の実名から家臣団内の家格差を考察する手法も見受けられる (10) 。
 多くの場合は家臣や子息といった個人の実名より戦国大名からの偏諱授与を推測し、政治面や外交面などの意味合いを付与する手法がなされていると思われる。先述した松平信康の実名の成り立ちから織田氏と徳川氏との関係について評価する黒田基樹の手法も同様であろう。しかし、このような手法の根拠として一字書出などの一次史料が必ずしも存在する訳ではないため、戦国大名および家臣/子息の実名からの推測に拠らざるを得ないという問題点、あらゆる戦国大名の家中に対して適用できるのかという疑問点が浮かび上がる。そのような問題点や疑問点を踏まえた上で、松平信康の事例から戦国大名の偏諱授与を考え直してみたいというのが本稿の意図である。

本論

松平信康の元服に至るまでの概略

 永禄三(1560)年五月の桶狭間合戦で今川義元が討死した後、松平元康は岡崎城に入城した。近年の研究によると元康が岡崎城に入城したのは今川氏真の承認を得た上での軍事行動であったとされ (11) 、岡崎領に帰還した元康は尾張・三河国境地帯における織田方との合戦に乗り出していく。しかし、氏真は妻の実家である後北条氏への支援を優先し、単独で織田方と戦わなければならなくなった元康は、永禄四(1561)年頃に水野信元を仲介役として信長と和睦を結び、反今川方としての旗幟を鮮明にしていく。三河をめぐる今川氏との抗争を展開するなかで元康は信長との関係強化を志向する。永禄六(1563)年三月には信長の長女・五徳と元康の嫡男・竹千代との婚約が成立し、永禄十(1567)年五月に五徳の輿入れが行われたことで織田・徳川間の軍事協定が成立したと考えられよう (12) 。
 永禄十一(1568)年九月に足利義昭を擁して信長が上洛すると、家康(永禄六年七月頃に元康から改名)は今川領国である遠江への軍事侵攻を展開するとともに畿内周辺における義昭・信長の戦争に関与していく。そのような状況のなかで、家康の嫡男である竹千代は元亀元(1570)年八月に元服、実名「信康」を名乗るようになる。

■史料A

同廿八日・九日又能有之、是ハ竹千代殿今年十三御元服被成、岡崎次郎三郎信康ト申候、御シウトノ信ノ字・御父ノ康ノ字御取ナサレ候、其御祝ノ御能ナリ

(『松平記』、国立国会図書館所蔵本、『愛知県史』資料編14 中世・織豊)

元亀元年八月廿八日、大神君遠州濱松ノ城ニ於テ、観世宗雪入道、同左近太夫を召テ、終日猿楽アリ、御家門ノ歴々近習外様ノ諸士、城ニ登テ見物ス、其外遠三両國ノ郷民等、群参乄是ヲ見ル、大神君ノ長男御元服有テ、岡崎次郎三郎信康ト號シ給フ、其賀儀ト乄猿楽アリ、

(『家忠日記増補』「大日本史料総合データベース」)

元亀元年八月廿八日、竹千代様御元服被遊、次郎三郎信康ト申候、御舅信長公ノ信ノ字ト、御父家康公ノ康ヲ御取被成候テ也、次郎三郎ヲ略シテ、岡崎三郎様ト申候、御元服ノ御祝トシテ、観世宗雪入道、同左近太夫能仕、初日廿八日、九番、二日目廿九日、十五番、両日共ニ三郎様モ御能被遊之由、

(『浜松御在城記』「大日本史料総合データベース」)

 『松平記』『家忠日記増補』『浜松御在城記』によると、元亀元年八月二十八日、二十九日に信康の元服を祝う能が催された。「信康」の実名について、『松平記』には「御シウトノ信ノ字・御父ノ康ノ字御取ナサレ候」とある。ここから、「松平信康の『信』は織田信長からの偏諱授与であった」と説明される訳であるが別の視点で考えてみたい。

松平・徳川一門の改名に関する『松平記』の記述の比較・検討

 『松平記』では、松平広忠(家康の実父)や徳川家康(竹千代から元服後、松平元信・松平元康)、松平信康について、元服に伴う改名や何らかの理由による改名の記述(史料A~E)を確認することができる。本稿ではそれらの記述を比較・検討してみたい。

■史料B

其後御元服アリテ、松平次郎三郎広忠ト申奉ル、吉良東条持広ノ御烏帽子コニ成給フ故ニ、広忠ト申奉ルトキコヘシ、持広ハ清康ノ妹聟ニテ御座候間、仙千代殿ヲイトヲシミ奉リ、色々御肝煎被成、

(『松平記』、国立国会図書館所蔵本、『愛知県史』資料編14 中世・織豊)

 天文四(1535)年十二月に発生した「守山崩れ」で松平清康が殺害された後、安城城にいた松平信定(清康の叔父)が岡崎城に入城し、清康の嫡男であった千松丸(『松平記』では「仙千代」)を追放した。追放された千松丸一行は伊勢、遠江国掛塚へ移った後、天文五(1536)年八月に三河へ入国し足利将軍家の御一家衆かつ千松丸の叔母婿にあたる東条吉良持広を頼った。
 『参州本間氏覚書』 (13) では、天文六(1537)年十二月九日に東条吉良持広を烏帽子親として千松丸は元服し、持広の「広」を与えられて「広忠」と実名を改めたという。上記の引用史料は『松平記』の「仙千代」元服に関する記述であり、烏帽子親の東条吉良持広からの偏諱授与が記載されている。

■史料C

去程ニ竹千代殿御成人之間、今川殿御前ニテ元服被成、義元一字ヲ付被申、松平次郎三郎元信ト申、

(『松平記』、国立国会図書館所蔵本、『愛知県史』資料編14 中世・織豊)

 松平広忠の死後、今川方と織田方との「境目」における勢力争いが展開していく中で、広忠の嫡男である松平竹千代(後の家康)は駿府において庇護されることとなった。これは、今川義元が幼少の竹千代による松平家中や岡崎領の安定化の遂行を不安視し、今川家の保護による直接管理下に置いたためと柴裕之 (14) は述べている。
 駿府での生活を過ごして十四歳になった竹千代は、天文二十四年(1555年、同年十月に弘治元年に改元)頃に元服し、実名「元信」を名乗った。『松平記』には「今川殿御前ニテ元服被成、義元一字ヲ付被申」とあるので、義元が烏帽子親となって元服し、偏諱授与が行われたと考えられる。柴裕之は、松平元信に対する義元の偏諱授与の意図として「今川家の政治的・軍事的な保護を得た従属国衆・岡崎松平家の当主の立場にあること」を世間に周知させるためであったと指摘する。

■史料D

弘治二年正月義元ノ御妹聟ニ関口刑部少輔殿ト申テ、今川御一家御座候、其聟ニ元信被仰付、義元之姪聟ニ御成被成候、御官途有、松平蔵人元康ト改名被成、清康ノ康之字ヲ御付被成候、

(『松平記』、国立国会図書館所蔵本、『愛知県史』資料編14 中世・織豊)

 弘治二(1556)年正月に今川家御一家衆の関口刑部少輔氏純の娘(後の「築山殿」)と婚姻を結び、元信は今川家御一家衆に準ずる"親類衆"として位置付けられることとなった。また、永禄元(1558)年七月頃を目途に実名を「元康」に改めたという。「元康」の「康」は『松平記』によると祖父清康の「康」から取ったとされる。
 「元信」「元康」の名乗りについて、いずれも烏帽子親である今川義元から偏諱授与された「元」を上字、家康個人の意思によって「信」「康」がそれぞれ下字として選択されたのではないかと推察する。数多くの識者が指摘している通り「信」は岩津・安城松平氏の始祖である信光、曾祖父信忠、その弟である信定、大叔父信孝に因んだ松平家の通字であり、「康」は『松平記』の記述通り祖父清康から用いたと考えられる。また、永禄二(1559)年十一月までには、仮名次郎三郎から岡崎松平家当主の代々の官途である「蔵人佐」を称し始めたことからも元康が抱える岡崎松平家当主としての矜持を伺うことができる。
 「庇護者である今川家と近しい関係を有する岡崎松平家の当主」としての自己の立場を表出する手法が「元信」「元康」の名乗りであったと本稿では考えたい。

■史料E

同月家康ト改名有、駿河ト手キレ被成候故也、

(『松平記』、国立国会図書館所蔵本、『愛知県史』資料編14 中世・織豊)

 織田信長と和睦して今川方から離反する動きを見せた元康と今川氏真との抗争は「三州錯乱」と称され、多くの三河国衆とその一族を今川方・松平方に分裂させた戦争状態が繰り広げられることとなった。室町幕府将軍足利義輝は今川氏・松平氏間の和睦仲介に乗り出し、今川氏と同盟関係にあった北条氏康や武田信玄にも御内書を発給して和睦成立への尽力を求めた。しかし、この和睦は実現せず抗争は継続することとなる。
 永禄五(1562)年二月頃に松平方は西郡上之郷城の鵜殿氏を降伏させる。捕縛した鵜殿長照の子息二人は人質交換に用いられ、駿府で人質となっていた竹千代(後の信康)は無事に岡崎に帰還することができた。戦況は膠着するものの元康は今川方との抗争を継続し、今川義元から偏諱授与された「元」を捨てて実名「家康」と改めることによって今川方からの自立を改めて強調する。『松平記』にも「駿河ト手キレ被成候故也」と改名の理由が記されており、反今川方を強調する家康の自発的意思を伺うことができる。

 『松平記』の記述である史料A~Eを比較・検討すると以下のような二点の特徴を挙げることができる。

① 元服に伴い偏諱授与が行われた際には、烏帽子親子の関係が明示された上で偏諱授与が行われた旨が記述されている。史料Bの東条吉良持広から松平広忠への偏諱「広」の授与、史料Cの今川義元から松平元信への偏諱「元」の授与が該当する。
② 本人の自発的意思による改名については、単に「改名被成」「御付被成」「改名有」と記されている。史料Dの松平元信→元康への改名、史料Eの松平元康→家康への改名が該当する。

 それでは、上記二点の特徴を踏まえて史料Aを考察してみよう。松平信康の実名については「御シウトノ信ノ字・御父ノ康ノ字御取ナサレ候」とあり、元服に伴う烏帽子親子の関係に基づく偏諱授与が明示されている訳ではなく単に「御取ナサレ候」と記されている。ここから『松平記』では織田信長と松平信康の烏帽子親子の関係、その関係に基づく偏諱授与は見出すことはできないと判断できないか。

「織田信長から松平信康に対する偏諱授与」に関する史料の変遷

 織田信長から松平信康に対する偏諱授与について史料から確認できるようになるのはいつ頃であろうか。下記に史料一覧としてまとめてみた。

 この一覧から以下の四点を指摘したい。

Ⅰ. 織田信長から松平信康に対する偏諱授与が史料上で明記されるのは『本朝通鑑』(寛文十(1670)年に成立)が初見である。この史料では、信長と家康との厚誼や信康が信長の娘婿であったことを理由に信長からの偏諱授与を求めたことが記されている。
Ⅱ. 『総見記』(貞享二(1685)年に成立)では、娘婿である信康の元服に際して信長は使者を派遣し、格別な祝儀として偏諱「信」を自発的に賜与したことが述べられている。ここからは、信長からの偏諱授与が江戸時代において名誉ある出来事として認識されていたことを推察できる (15) 。
Ⅲ. 『武徳編年集成』(元文五(1740)年に成立)にも信長から偏諱「信」が信康に賜与されたことが記されている。著者である木村高敦はその編纂にあたって数多くの史料を調査したとされるが、恐らく『総見記』を調査対象の史料の一つとして参照し、信長からの偏諱授与を記したのではないかと推察する (16) 。そして、『武徳編年集成』の記述は後年の『徳川実紀』(東照宮御実紀)に影響を与えたと考えられよう。
Ⅳ. 「松平信康の元服の際に信長が烏帽子親を務めた」という記述は十八世紀頃に成立した将軍の正室や側室、その乳母などの女性の事績・系図を記した史料から確認することができる(『玉輿記』、『柳営婦女伝系』)。このような史料の変遷から後年の『徳川幕府家譜』が「加冠役信長」と記しており、定着することとなった。

結論

 本稿では織田信長から松平信康に対する偏諱授与を「敢えて疑う」手法で考察を進めてきた。まず、その根拠とされている『松平記』のうち松平・徳川一門の改名に関する記述を比較・検討した。その結果、「元服に伴う偏諱授与は烏帽子親子の関係が明示されている」「自発的意思に基づく改名では単に『改名被成』『御付被成』『改名有』と記されている」ことを指摘し、『松平記』の記述においては、信長からの偏諱授与を説明することができないのではないかと考察した。
 さらに、関連史料を通覧してみると、信長からの偏諱授与を記す初見史料の『本朝通鑑』では徳川家からの求めに応じたものとされていたが、『総見記』では信長の自発的意思による賜与であったとされている。『総見記』の記述は『武徳編年集成』に用いられたと考えられ、後年に編纂された『徳川実紀』(東照宮御実紀)からは『武徳編年集成』の影響を伺うことができる。このような流れを経て、信長からの偏諱授与は歴史編纂書が記す「通説」として定着していく。なお、織田信長と松平信康を烏帽子親子の関係として捉える記述は十八世紀頃に成立した史料から確認できるようになる。

 それでは、「松平信康の実名は岳父信長の『信』を上字に取り、実父家康の『康』を下字に取って名付けられた」ことは如何なる意味を有していたのか。織田氏と徳川氏との関係は信康元服の時期において、黒田基樹が指摘するような明確な支配・従属の側面を有するものではなく、基本的には足利義昭政権を支える上で対等な関係であったと考えられる。それでも、戦国大名同士が対等な関係を維持していくにあたって、軍事面での提携の他に贈答行為や婚姻関係の維持といった形でお互いがお互いに配慮し合うことは必要であったのだろう。信長息女・五徳と家康嫡男・信康との婚姻や「信康」の実名は、そのような相互の「配慮」の一端であり、織田氏と徳川氏との対等な関係を維持する上で必要であったと思われる (17) 。

 ただし、本稿における考察は江戸時代に成立した二次、三次史料に拠ったものにならざるを得ず、実態解明について一字書出などの一次史料の発見を期待するしかないことは留意しなければならない。また、偏諱授与という行為だけで戦国大名間の支配・従属関係を強調するべきではないと理解すること、戦国大名やその家臣/子息の実名からの推測だけで偏諱授与を判断するべきではなく、一次史料を用いた上で戦国大名の家中の在り方を考察する方向へと進展させていく必要があるのではないか。


注釈

(1) 黒田基樹『家康の正妻 築山殿〈平凡社新書1014〉』(平凡社、2022年)、同『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る〈朝日新書902〉』(朝日新聞出版、2023年)、同『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版、2023年)
(2) 平野明夫『徳川権力の形成と発展』(岩田書院、2006年)、同「織田・徳川同盟は強固だったのか」(日本史史料研究会編『信長研究の最前線 ここまでわかった「革命者」の実像』(洋泉社、2014年)に所収)
(3) 「抑弥三郎字儀、利三迄令申候処、御披露を以被成下 御朱印、殊更 信御字拝領候、名聞面目不過之」(「石谷家文書」、浅利尚民・内池英樹編『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』(吉川弘文館、2015年))
(4) 近衛信基については、後年の史料ではあるものの『総見記』に記述がある。

同月十二日近衛殿下前久公ノ公達ノ御方御元服加冠ノ儀大臣家ヘ御所望ナリ往古ヨリ禁裏ニ於テ御元服通例ノ事ニ候間當時最其例然ルベキノ由大臣家再三御辞退候トイヘトモ頻並ニ御所望黙止ガタク是ニ依テ是非ニ不及大臣家御加冠ナサレ公達今日御元服御一字ヲ進ぜラレ信基ト名付ラレ

(「総見記」、早稲田大学図書館古典籍総合データベース)

(5) 織田信長の偏諱授与について、家譜や系図史料の考察から以下のような特徴を見い出せないかと考えている。個々の事例の考察は別稿に譲りたい。

① 戦功に対する恩賞や他国および他家から織田家に転仕した者に対して偏諱授与が行われる場合がある。
② 従属してきた国衆に対して織田弾正忠家の通字である偏諱「信」を与える場合がある。
③ 側近衆との主従関係の強化を目的として偏諱「長」を与えている事例を推測することができる。

(6) 二木謙一「戦国期室町幕府・将軍の権威-偏諱授与および毛氈鞍覆白傘袋免許をめぐって-」(『国学院雑誌』第八十巻第十一号、1979年、後に改題「偏諱授与および毛氈鞍覆・白傘袋免許」『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館、1985年)に所収)
(7) 水野智之「室町将軍の偏諱と猶子-公家衆・僧衆を対象として-」(『年報中世史研究』第二十三号、1998年)、同『名前と権力の中世史〈歴史文化ライブラリー388〉』(吉川弘文館、2014年)
(8) 加藤秀幸「一字書出と官途(受領)挙状の混淆について」(『古文書研究』第五号、1971年)
(9) 大塚俊司「大友氏の加冠・偏諱授与と家臣団」(『年報中世史研究』第三十二号、2007年)
(10) 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団-信玄・勝頼を支えた家臣たち-』(教育評論社、2016年)ほか
(11) 丸島和洋「松平元康の岡崎城帰還」(『戦国史研究』第76号、2018年)
(12) 織田氏と徳川氏との軍事協定について、下記の論考においてそれぞれの取次担当者の変遷と絡めて考察したことがある。ご参照願いたい。

(13) 「參州本間氏覺書冩」東京大学総合図書館所蔵 総合図書館所蔵古典籍

(14) 柴裕之『青年家康 松平元康の実像〈角川選書662〉』(KADOKAWA、2022年)
(15) 例えば、後世の由緒では、奥平信昌は信長から偏諱「信」を与えられて「信昌」を名乗ったとされており(「豊前中津奥平家譜」)、池田恒興は織田信秀もしくは信長から偏諱を与えられて「信輝」を名乗ったとされている(「池田家履歴略記」「寛政重修諸家譜」ほか)。これらの事例は関連文書の考察からいずれも事実ではないと判断できるが、名誉ある自家の記憶として後世に残すために創作が為されたと考えられよう。
(16) 木村高敦が『武徳編年集成』を編纂するにあたって『総見記』を参照したことは記事内容の共通性から推測できる。一例として桶狭間合戦後の織田氏と徳川氏との和睦に関する記事の共通点を取り上げてみる。

・和睦条件の調整のために織田方からは林秀貞・滝川一益、徳川方からは石川数正・高力清長が鳴海にて参会し、尾張・三河の「境目」の確定や織田方の諸城からの撤退が行われたこと
・和睦が結ばれた御礼として松平元康が酒井忠次や石川数正ほか、馬廻衆百騎を引き連れて清須へ出向いてきた。信長から迎えとして林秀貞・滝川一益・菅屋九右衛門が熱田まで派遣されてきたという。清須での対面の際には信長から「長光ノ御腰ノ物(長光ノ太刀)」「吉光ノ脇指(吉光ノ御脇指)」が元康に贈られたこと
・信長からの返礼の使者として林秀貞・菅屋九右衛門が岡崎に派遣されてきた。元康は「松應寺(正音寺)」を宿所に定め、両人を盛大に歓待したこと

(17) 近年の研究における一例を挙げると、遠藤珠紀が徳川家康の左京大夫任官を考察するなかで「家康と信長の関係性の変化」に若干触れている。後奈良院追善仏事の費用献上を家康に依頼する女房奉書は、永禄十二(1569)年七月時点では家康に直接依頼する形式であったが、十一月に届けられた礼状では信長を介して家康に伝える形式となっていることを指摘する。
 また、家康への献金依頼の際に岐阜に立ち寄った山科言継を信長は制止しているが、今川攻めに集中しているので「朝廷の献金依頼に対応している暇はない」という家康への配慮、もしくは「信長の頭越しに朝廷と家康が交渉することを快く思わなかった」という思惑を推測している。遠藤は「信長の不快感、というほどではないにせよ、遠慮から、この功績による家康の任官があまり用いられなかった可能性もあるのではないだろうか」と述べている。詳細は、遠藤珠紀「〈研究余滴〉徳川家康の左京大夫任官はいつか」(『古文書研究』九十五号、2023年)を参照のこと。


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