織田・徳川間の取次の変遷に関する考察
■ 序論
前回「佐久間甚九郎・佐々一兵衛宛徳川家康書状に関する考察」をnoteに投稿したところ、著名な戦国史研究家であり、現在は大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を務めておられる平山優先生よりご指摘を賜った。本稿は平山先生が「調査検討すべき」事項として挙げられた「織田・徳川間の取次の変遷」を自分なりに史料の収集を行い、検討を試みたものである。
※前回記事は下記のリンクを参照のこと。
佐久間甚九郎・佐々一兵衛宛徳川家康書状に関する考察|徒然なるままに|note
■ 本論
織田信長と徳川家康との同盟は一般的に「清須同盟」(他に「尾三同盟」「織徳同盟」など)と呼ばれる。信長と家康(当時は松平元康)が和睦を結んだ永禄四年から信長が本能寺で討たれる天正十年まで長期に亘って継続し、戦国大名間の同盟としては稀有なものであったと評価できよう。しかし、織田・徳川間の外交において活動した取次の実態について、甲斐武田家との戦争を考察するなかで断片的に語られることはあるものの、その外交全体を通して考察した研究は存在しないと思われる。
そこで、「織田・徳川間の取次の変遷」に関連するであろう人物を下記ファイルに取り纏めたのでご覧いただきたい。なお、本稿で言及する「取次」について丸島和洋の研究に則り、「特に権力の中枢に位置する人物を中心」とした「戦国大名の外交担当者」を「取次」と呼称することにしたい。
徳川家に対する織田家の取次(指南)に関連するであろう人物を概観したところ、以下のような特徴が指摘できる。
① 織田家の取次(指南)について、永禄・元亀年間~天正三年頃まで佐久間信盛や柴田勝家といった織田家宿老(年寄)が担当している。
② 天正七年頃から織田家の取次(指南)は西尾吉次や堀秀政といった信長の側近が担当している。また、佐久間信盛失脚後に刈谷城主となった水野忠重や尾張国高橋郡の余語勝盛などの尾張・三河の境目周辺に所領を有する領主が織田・徳川間の情報伝達や援軍派遣を行う場合がある。
①について関連する人物を取り上げると以下の通りである。
佐久間信盛
佐久間信盛は、永禄十年五月に信長息女である五徳が松平信康に輿入した際に織田家宿老として随行したことを契機に家康との関係が生まれたと推測する(『家忠日記増補』ほか)。初見となる古文書は永禄十二年二月四日付けの徳川家康宛織田信長朱印状であり、「委曲佐久間右衛門尉可申候」という記述から信盛が徳川家に対する取次(指南)を担当したことが分かる。
信盛の取次(指南)としての活動は、徳川家に対する軍事支援がメインである。同時代史料ではないが『松平記』では、信長が足利義昭を奉じて上洛する際に徳川家中から藤井松平家の松平信一が援軍として派遣された。そして、佐久間信盛が使者となり「信一が先陣を務めるように」と信長の命令を申し伝えてきたという。信一が先陣を務めたという逸話は太田牛一『信長記』などで確認が取れず事実がどうかは不明である。しかし、『足利義昭入洛記』には信長が伊勢・尾張・三河・美濃の軍勢を率いていたという記述がある。このときに織田家の取次(指南)を務める信盛が松平信一が率いる三河衆に対して軍事命令を伝達する役目を果たしたと考えても違和感は無いであろう。また、先述した信長朱印状では恐らく今川氏攻略のために舟運を用いた援軍派遣を信長が提案し、「委曲佐久間右衛門尉可申候(詳細は佐久間信盛が申し伝える)」と記していることから織田・徳川間の軍事連携を目的として佐久間信盛が派遣されたといえよう。
また、元亀~天正年間において、甲斐武田家に対抗する家康に向けた援軍派遣や兵粮搬入を行う役目を信盛が果たしている。援軍派遣で最も有名なのは、三方原合戦で「信長公御家老之衆」として平手汎秀とともに派遣されたことであろう(池田家本『信長記』第五)。武田信玄の死後、息子の勝頼が軍勢を率いて徳川方に属していた高天神城の小笠原氏を攻撃した際にも、信長からは織田信忠と信盛が先勢として派遣されている(『年代記抄節』)。兵粮搬入について、天正三年三月十三日付けの織田信長宛徳川家康書状では織田家から援助が行われたこと、信長からの見舞いとして佐久間信盛が派遣されたので徳川領国の詳細な状況は信盛から申し伝えることを記している。
天正三年五月二十一日の長篠合戦では、家康との関係から佐久間信盛は水野信元とともに織田・徳川方の右翼、家康陣所に附属して布陣していたことが藤本正行・平山優によって指摘された(早稲田大学図書館所蔵古活字本『信長記』、徳川美術館所蔵「長篠合戦図屏風」)。
以上のような活動から佐久間信盛が徳川家に対する取次(指南)を担当していたことは間違いない。信盛にとって外交相手の家康は「於何篇も家康御為可然様ニと無奥底被存候(何事であっても家康の御為によいように取り計ろうと心底思っております)」程の存在であった。しかし、天正三年以降の徳川家との外交に信盛が関与する事例は皆無である。これは天正四年に討死した原田直政に代わって信盛が大坂本願寺攻撃の指揮を任されるようになり、徳川家との物理的距離が遠くなり過ぎてしまったためであろう。
柴田勝家
柴田勝家について、(永禄十二年カ)十一月十七日に近江国の「長命寺寺家之儀」を酒井忠次から「何様之義も御指南奉憑候(どのようなことであっても御指南をお頼みしたい)」と懇願されている。忠次は同書状のなかで「別而家康馳走被申候」と記し、織田奇妙(後の信忠)が丹羽長秀に宛てた書状で「長命寺之儀、岡崎より申越候」と述べているが、本件は家康の意向を受けた忠次が柴田勝家に書状を送って「御指南」を依頼したのであろう。
織田家に対する徳川家の取次であった酒井忠次が柴田勝家に「御指南」を依頼した理由について、勝家が(永禄十二年カ)十二月一日付けで坂井政尚とともに連署状を発給していることが挙げられよう。織田奇妙の意を奉じて長命寺の寺領安堵を申し伝えていることから、勝家が「長命寺寺家之儀」に対処できる人物であったと外部から認識されていた可能性を指摘できる。
佐久間信栄・佐々一兵衛
佐久間信栄・佐々一兵衛(主知)について、(年次未詳)十一月二十六日付けの徳川家康書状で「御取成憑入候」とあるので取次を依頼されていることが分かる。本件は恐らく例外事項であったと思われる。佐久間信栄について、本来取次(指南)を担当していた父の信盛が何らかの状況で不在にしているため息子の信栄に宛てて書状が送られたのではないか。また、佐々一兵衛は(元亀三年)六月二十一日付けの酒井忠次宛佐久間信盛書状に「従越国近日佐々一兵衛可罷上候(越後国から近日佐々一兵衛が参上いたします)」と記されており、織田・徳川間の外交に関与していたことが分かる。
②について関連する人物を取り上げると以下の通りである。
西尾吉次
佐久間信盛が畿内戦線に投入されて徳川家に対する取次(指南)の立場を離れた後、その役割を継承したのは西尾吉次であった。西尾は安土城築城の際に御石奉行を務めており、信長の側近の立場にあった。
西尾が織田・徳川間との外交に参加したことが史料から確認できるのは天正二年である。九月十三日付けの織田信長宛徳川家康書状では徳川家中から堀平右衛門尉を派遣したこと、そして、織田家からは西尾吉次が派遣されてきたことについて家康が感謝の気持ちを記している。恐らくは武田家との戦争に関する織田・徳川間の情報共有を目的とした遣り取りであろう。ただし、当時の徳川家に対する取次(指南)は佐久間信盛が主となって担当していたため、西尾の外交への関与に関して本書状以外に確認できない。
天正四年に大坂本願寺と対峙する畿内戦線へ佐久間信盛が主将として投入されると、それ以降の織田家の取次(指南)は西尾が本格的に担当するようになったと思われる。天正七年十月二十四日付けの徳川家康宛織田信長黒印状には「猶従是西尾可申候」とあり、荒木村重方の伊丹城攻めの戦況を報告するにあたって西尾が織田家の取次を担当していることが分かる。
西尾の取次(指南)としての活動は、武田家との戦争における徳川家に対する軍事支援で散見される。天正八~九年にかけて行われた徳川方による遠江高天神城の攻囲戦において、天正八年十二月に織田家からの見舞いとして猪子高就・福富秀勝・長谷川秀一とともに西尾吉次が徳川方陣所に派遣されている。高天神城攻囲戦で家康は信長に対する披露状の形式を採った西尾宛書状で戦況報告を行っており(「古典籍展観会出陳文書」)、信長は高天神城を落城させた家康の戦功を称賛するとともに西尾に(信長の意向を)申し含めた上で派遣したのでそちらの方面の様子を報告するように書状中で記している(「個人所蔵文書」)。また、『家忠日記』『信長記』によると天正十年春頃に駿河・甲斐に侵攻して武田家を打倒するため、信長は西尾に命じて黄金五十枚で準備した兵粮八千余俵を家康とその家臣たちに配分させている。西尾は天正十年二月二十六日に安土に帰還したが、同年三月十三日には再び徳川領国に派遣されてきたことを『家忠日記』は記す。
このように西尾は徳川家に対する織田家の取次(指南)として、織田・徳川間の戦況報告や兵粮搬入といった活動に従事していた。また、西尾は松平庶家内で発生した所領争いにも取次(指南)として対応している。大給松平家の松平親乗が知行していた高橋・押切が何某による押領行為を受けた際に、被害を被った当事者である松平親乗や徳川家宿老であった石川数正から報告を受けて「何も自安土御返事可申入候」「自安土委可申入候」と織田権力として対処することを申し伝えている(「松平乗承家蔵古文書」)。
堀秀政
堀秀政の取次(指南)としての活動は、天正七年八月八日付けの堀秀政宛徳川家康文書で確認することができる。この書状は松平信康事件に関係するものであり、家康が酒井忠次を派遣して信康処断に関する報告を信長に伝えるために秀政へ「御取成」を依頼したことが分かる。信長息女である五徳の婿である信康を処断することは織田・徳川間の同盟の破綻に繋がりかねないため家康は信長と緊密に相談しながら信康処断を進めている(『安土日記』『当代記』など)。織田・徳川間の緊密な連携が求められるなかで、信長に側近として仕えている秀政が取次に選択されたと考えるべきであろう。
水野忠重・余語勝盛
水野忠重は元々は家康に仕えていたが、佐久間信盛が失脚した後に兄の水野信元の所領であった刈谷城を与えられて織田家臣に転仕したという(『家忠日記』『結城水野家譜』)。忠重は織田信忠の軍団に附属させられ、天正九年一月四日には常滑水野氏の水野守隆や大野衆とともに横須賀城の番手として派遣されている(池田家本『信長記』第十四)。忠重も家康やその宿老たちに信長の意向を連絡する役目を果たしている。天正九年一月二十五日付けの信長黒印状では、忠重が高天神城の攻略に関する信長の意見を「此通家康ニ物語、家中之宿老共にも申聞談合尤候(この通り家康に伝え、徳川家中の宿老たちにも申し伝えて相談するのがもっともである)」とある。
本能寺の変後は織田信雄に仕えて「かりや領」「緒川領」に一万三千貫文を領した(「織田信雄分限帳」)。信長死後も徳川家康と忠重との関係は継続していた。羽柴秀吉は石川数正に宛てた書状中で後北条家と対峙する家康のために織田信雄が先勢の派遣を命じたこと記しているが(「小川文書」)、このときに派遣されたのが忠重であったと思われる。天正十年十二月十七日付けの水野忠重宛徳川家康書状では、長期間にわたる甲斐国での在陣について家康が謝意を述べている。また、天正十一年五月三日付けの水野忠重宛徳川家康書状では、忠重が賤ケ岳合戦の模様や絵図を家康に報じていたことが記されている(いずれも「水野文書」)。
水野忠重は信長の命によって刈谷城主の地位に就いた後、徳川家中への信長の意思伝達や織田・徳川間での軍事面における相談、家康への援軍派遣といった活動に従事している。信長死後に「織田体制」が発足した後も織田信雄の家臣として援軍派遣や家康への戦況報告に関与していることが史料から確認できる。このような忠重の活動には下記の二つの理由が挙げられよう。
1. 忠重が家康の叔父である水野信元の弟であった事実や元々は徳川家中に属していたという家康との個人的な関係を有していたこと
2. 刈谷城が尾張・三河の境目に位置することから織田・徳川間の情報伝達や援軍派遣の役目を任せるにあたって利便性があったこと
余語久兵衛勝盛は愛知郡御器所の人であり、天正八年三月に信長から安土城下の屋敷を与えられている(池田家本『信長記』第十三)。佐久間信盛の追放後に衣(拳母)城主に就いたのであろうか。『織田信雄分限帳』によると高橋郡に二九〇〇貫文を与えられており、猿投神社の法会記録を記した『八講牒』には天正十三年に衣城を退去したことが記されている。
天正九年二月五日付けの余語久兵衛宛徳川家康書状では徳川方の高天神城攻めにあたって勝盛が使者を派遣してくれたことに家康が謝意を述べており、また、「於京都御馬揃御用意奉察候、猶使者へ申渡候(京都における馬揃の用意について承知しました、なお使者が申し伝えます)」と記している。勝盛が取次として信長の意向を家康に伝えていたのかは史料上で確認が取れないため不明である。しかし、天正九年二月十九日付けの徳川家康宛織田信長黒印状では洛中馬揃の件について申し付けたところ鹿毛の馬一匹が家康から贈られてきたことを信長が褒賞している。家康は余語久兵衛宛書状の発給からわずかな期間で信長へ馬の贈答を行っており、余語勝盛を取次として織田・徳川間の意思伝達が行われたと想定できるのではないか。
水野忠重と余語勝盛の二人に共通する点は尾張・三河の境目周辺に所領を有する城主であったことである。彼らの所領は織田領国と徳川領国との中間地帯に位置することから、境目の城主として織田・徳川間の情報伝達や援軍派遣を任されやすい立場にあったといえるであろう。
上記では徳川家に対する織田家の取次(指南)に関する特徴と関連する人物について考察した。次に織田家に対する徳川家の取次に関連するであろう人物を取り上げてみると下記のような特徴が指摘できる。
(A) 徳川家の取次は徳川家宿老が一貫して担当している。そのなかで酒井忠次は永禄十二年から徳川家の取次としての活動を確認できる。
(B) 天正三年より酒井忠次に加えて石川数正が織田家に対する取次を担当するようになる。数正は、本能寺の変以降も「織田体制」や羽柴政権に対する徳川家の取次として羽柴秀吉と書状の遣り取りなどを行っている。
(A)(B)に関連するであろう人物を取り上げて考察してみる。
酒井忠次
酒井忠次は松平家重臣の家系である酒井左衛門尉家の出身であり、北島正元の研究によると、家康によって吉田城の城代に配置されて東三河の国衆を統括する「旗頭」に位置付けられていたという。他の戦国大名との外交にも幅広く関与しており、小田原北条家・尾張織田家・甲斐武田家・越後上杉家との外交において取次として活躍していたことが史料上から確認できる。
酒井忠次が織田家に対する徳川家の取次として史料から確認できる初見は、先述した(永禄十二年カ)十一月十七日付けの柴田勝家宛酒井忠次書状である。家康は取次である酒井忠次を通じて織田奇妙・柴田勝家に「長命寺寺家之儀」を問い合わせたのであろう。本書状において注目すべき文言は「何様之義も御指南奉憑候」である。長命寺が立地していた近江国蒲生郡は元々は佐々木六角氏の所領であった。しかし、信長の攻勢によって六角氏当主である義賢(承禎)が甲賀郡に退去した後は丹羽長秀・村井貞勝が郷村や地下人に指出の呈出を求めるなど織田家によって収公されていた。そのため、現地における関係者への対応などを含めて織田家に依頼する必要があったので「御指南」という文言が使用されたのではないかと推察する。
元亀~天正年間の甲斐武田家との戦争において、忠次は家康の右腕として認識されていたため織田家に対する取次としての活動を信長や織田家宿老から期待されていたと思われる。(元亀三年)六月二十一日付けの酒井忠次宛佐久間信盛書状において、信盛は「甲使者種々雖申掠候、被仰聞候通、不浅申分候(甲斐の使者が様々なことを言っていますが、仰った通り信用できません)」と記し、家康には忠次からよくよく言い聞かせてもらうように念を入れている。また、信長との関係からは以下の事例が挙げられる。
・天正二年六月十四日に武田勝頼の攻勢によって苦戦する高天神城を救援するために信長は岐阜を出陣し、十七日には酒井忠次の居城である三河吉田城に着陣する。十九日には今切の渡しを越えようとするが、高天神城落城の報告を聞いて吉田城に撤退した。浜松から吉田城にやって来た家康に対して、信長は黄金が入った皮袋二つを馬に繋いで家康に与えた。その際に忠次は広間において一つの皮袋を二人で持ち上げる様子を見せたことから、上下万民は感悦したという(池田家本『信長記』第七)。
・天正三年五月の長篠合戦においては、忠次は信長・家康の双方から了解を得た上で東三河衆および金森長近など織田家馬廻によって構成された別動隊を率いて武田方の鳶巣山砦を強襲した。この作戦について、『三河物語』では忠次からの発案であったと記しているが、池田家本『信長記』では「信長被廻御案御身方一人も不破損之様に被加御思慮」と、信長による味方の損失を発生させないための作戦であったことが述べられている。
・『当代記』によると、天正三年八月に奥平信昌は酒井忠次に同道して岐阜城の信長と対面したという。信長は長篠城における奥平信昌の戦功を褒賞するとともに、酒井忠次にも御長刀・御皮袴・皮衣を与えたという。
これらの事例から酒井忠次は織田家に対する取次として織田・徳川間における情報共有や軍事連携に深く関与していたことが分かる。その理由として取次を担当する忠次に対する織田家からの信頼があったことは勿論であるが、忠次の居城であった三河吉田城が織田領国である尾張・美濃と徳川領国である三河・遠江とを結ぶ中継地点として機能していたという地理的条件も考えることができるのではないか(池田家本『信長記』第十五ほか)
天正七年七月十六日には徳川家中から信長への馬の献上のために忠次が安土を来訪している。しかし、これは松平信康の処断に関して信長の承諾を得るための使者でもあったことが指摘されている(本多隆成や柴裕之の研究を参照のこと)。家康が信長の側近である堀秀政に宛てた書状中に「今度左衛門尉を以申上候処」とあることからも首肯できる。信康の処断は『安土日記』によると家康および徳川家宿老の総意によって行われたが、織田・徳川間の同盟を破綻させかねない重大な問題であった。そのような状況下においても、酒井忠次は織田家に対する取次を担当し、織田・徳川間の関係を安定化させるために活動していたことが分かる。
石川数正
石川数正は叔父の石川家成とともに酒井忠次に次ぐ地位にあった徳川家宿老であり、織田家に対する徳川家の取次として活動が見出せるのは天正三年である。『当代記』には長篠城の救援を信長に依頼するために三河国衆の奥平定能と家康の命令を受けた数正が岐阜へ参上したとある。元亀四年七月に家康は奥三河の国衆である設楽貞通に対して数正の指揮に従い出陣することを命じており、また、天正三年四月には数正が書状を発給して名倉奥平氏の奥平信光の津具筋での戦功を賞している。ここから石川数正は奥三河において影響力を有する立場にあったことが分かるので、奥平定能との同行もその一環であったのかもしれない。
松平真乗兄弟の違法行為が発覚したことを受けて、本多重次の家臣である宇野清直が大給松平家家中の野田出雲守に宛てて発給した書状には「伯刕様もきふより昨日か今日ハ御帰可有候か」とある。つまり、当時、石川数正は岐阜を訪れており、大給松平家の問題に対応するために近日帰還するという予定が述べられている。岐阜への訪問が徳川家の取次としての活動であったかどうかは不明である。あるいは後述するように数正は大給松平家の指南を務めていたと考えられるため、問題解決に向けた対応策を織田家の取次(指南)と協議するために岐阜を訪問したのであろうか。
また、大給松平家の松平親乗の所領である高橋・押切が押領された際には、徳川家に対する織田家の取次(指南)を担当していた西尾吉次に詳細を報告していることが史料から確認できる。「譜牒余録後編巻四十四」所収の「石川伯耆守数正ノ組」の記録では「大給ノ 松平源次郎」「藤井ノ 松平勘四郎」が数正の組下にあり、数正は大給松平家や藤井松平家の指南を担当していたことが分かる。石川数正は信康事件後に岡崎城代を任されるなど徳川家中における有力な宿老として奥三河の国衆の統率や松平庶家に対する指南を務めており、彼らの領内で問題が発生した際には織田家の取次(指南)と相談しながら問題解決に取り組んでいる様子が確認できよう。
太田牛一『信長記』では、武田家滅亡後に家康が穴山梅雪を伴って安土を来訪した際に「石川伯嗜(数正)」「坂井左衛門尉(忠次)」が徳川家宿老のなかでは特筆されている。織田家中から見ても酒井忠次・石川数正の二人は徳川家中における有力な宿老として認識されていたのである。
信長の死後も数正は徳川家と「織田体制」との間を結ぶ取次として活動している。徳川家の取次としての数正が書状の遣り取りを行っていたのは織田家宿老の羽柴秀吉であり、天正十年十一月一日付けの石川数正宛羽柴秀吉書状が初見といわれている。しかし、この秀吉文書には「其方従前々、別而無御等閑申承候間、拙者事ハ、家康御前之儀、何様ニも任置申候(そなたとは以前から特別に親しく付き合ってきたので、私は家康様のことはどのような事もお任せしています)」とあり、秀吉と数正はこれ以前から親しい仲であったことが推察できる。天正十一年三月二十七日付けの石川数正宛羽柴秀吉書状では「此等之趣宜預御披露候」とあり、秀吉は家康に対する披露状の形式で数正に宛てて賤ヶ岳合戦の戦況報告を行っており、また、家康が「初花のこつほ」を秀吉に贈るために数正を使者として派遣していることなど、石川数正の「織田体制」に対する徳川家の取次としての活動は散見される。
羽柴秀吉の権力が当主である織田信雄を凌駕して羽柴政権が成立した後も石川数正は家康三男の於義丸(後の秀康)が大坂に送られる際に供するなど羽柴家に対する徳川家の取次として活動していた。数正は徳川家の取次として織田権力や本能寺の変以降の「織田体制」、羽柴(豊臣)政権との外交を担当するなかで中央権力との結びつきを強めていったのであろう。最終的には徳川家中における「外交政策をめぐる政争の敗北」で政治力を失い、尾張に向けて出奔することになってしまったのではないか。
大久保忠世
『松平記』によると、天正七年七月に夫である信康の不行跡や信康の母である築山殿の悪行を書き連ねた条書を娘の五徳から受け取った信長は、徳川家中より酒井忠次に加えて大久保忠世を召し出したという。この記述から大久保忠世も織田家への取次の一人であった可能性を想定できる。しかし、比較的信頼ができそうな根拠史料は『松平記』のみであるため確定不可能とせざるを得ない。記して後考を待ちたいと思う。
また、徳川家から織田家に派遣された奏者(使者)について概観してみると、小栗大六(重常)や成瀬藤八郎(国次)といった特定の人物が任されている事例が多い。既に織田家中で顔が知られている人物を派遣した方が円滑な遣り取りを行いやすいという家康の配慮であろう。
■ 結論
「織田・徳川間の取次の変遷」について、それぞれの取次の変遷における特徴を指摘した上で関連するであろう人物の活動を概観してきた。
徳川家に対する織田家の取次(指南)の変遷の特徴を再掲する。
① 織田家の取次(指南)について、永禄・元亀年間~天正三年頃まで佐久間信盛や柴田勝家といった織田家宿老(年寄)が担当している。
② 天正七年頃から織田家の取次(指南)は西尾吉次や堀秀政といった信長の側近が担当している。また、佐久間信盛失脚後に刈谷城主となった水野忠重や尾張国高橋郡の余語勝盛などの尾張・三河の境目周辺に所領を有する領主が織田・徳川間の情報伝達や援軍派遣を行う場合がある。
また、織田家に対する徳川家の取次の変遷の特徴を再掲する。
(A) 徳川家の取次は徳川家宿老が一貫して担当している。そのなかで酒井忠次は永禄十二年から徳川家の取次としての活動を確認できる。
(B) 天正三年より酒井忠次に加えて石川数正が織田家に対する取次を担当するようになる。数正は、本能寺の変以降も「織田体制」や羽柴政権に対する徳川家の取次として羽柴秀吉と書状の遣り取りなどを行っている。
これらの特徴から織田・徳川間の取次の変遷について総括する。徳川家の取次は酒井忠次や石川数正といった徳川家宿老が一貫して担当している。しかし、織田家の取次(指南)は佐久間信盛や柴田勝家といった織田家宿老が当初は担当していたものの、後年になると西尾吉次や堀秀政といった信長の側近や尾張・三河間の境目の領主が取次を担当するようになる。
織田家の取次の変遷について以下のように考えてみたい。
織田権力は天下一統事業を進めていくなかで宿老が万単位の軍勢を指揮する「方面軍」を編成し、四方の戦国大名との戦争を遂行できる体制を構築していたことを谷口克広が指摘している。徳川家の場合に関して、取次であった佐久間信盛が畿内方面軍としての軍事活動に集中せざるを得なくなったことで織田・徳川間の外交への関与が困難となり、取次が不在となってしまう状況が生まれたと思われる。そこで、不在になった宿老に代わって外交的役割を果たすことができる人物が求められ、西尾吉次や堀秀政といった信長の周辺で活動する側近たちが取次を担当するようになったのであろう。
また、別に想起したいのは織田信長と徳川家康との間の書札礼を分析することによって、徳川家が天正三年以降に織田権力に従属していく過程、そして、織田家の「一門に準じる立場」として位置付けられていたことを見い出した平野明夫の研究である。つまり、織田・徳川間の外交に関与する取次についても天正三年以降の織田・徳川間の従属関係の変化による影響を受けたことから、織田家の取次が織田家宿老→信長の側近および尾張・三河の境目の領主が担当する方向に変更されていったと理解できるのではないか。
それでは、本能寺の変で信長が死亡した後、織田・徳川間で活動していた取次はどうなったのか。先述したように石川数正は「織田体制」に対する徳川家の取次として羽柴秀吉と書状の遣り取りを行っていることから織田・徳川間の外交に関与していたことが分かる。また、徳川家の奏者(使者)について羽柴秀吉のもとには成瀬藤八が派遣されていた(「小川文書」「長尾文書」)。また、徳川家に対する「織田体制」の取次として、天正十年十二月二十二日付けの羽柴秀吉宛徳川家康書状には「以西尾申入候、其表之儀、慥被仰越可為本望候」とあるので西尾吉次が引き続き担当していたことが判明する。これらの事例より、信長死後の織田・徳川間の取次に関して基本的には信長が存命していたときの外交体制が残存していたと考えられる。
主要参考文献
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・名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集八 補遺・年未詳』(吉川弘文館、2023年)
・山本博文・堀新・曽根勇二編『徳川家康の古文書』(柏書房、2015年)
・山本博文・堀新・曽根勇二編『織田信長の古文書』(柏書房、2016年)
・『安土日記』(写本)(内閣文庫、修史館、1880年)
・『家忠日記』(増補史料大成 第19巻、臨川書店、1981年)
・『家忠日記増補追加』(『史料綜覧』9編 910冊 658頁を参照)
・『当代記』(史籍雑纂第二、国書刊行会、1911年)
・『言継卿記』第四(国書刊行会、1915年)
・『年代記抄節』(内閣文庫所蔵、修史館、1880年)
・『信長記』(池田家文庫本、岡山大学附属図書館)
・『信長記』(早稲田大学図書館所蔵古活字本)
・『松平記』(文科大学史誌叢書、吉川半七等、1897年)
・『三河物語』(日本思想大系26、岩波書店、1974年)
・「大日本史料総合データベース」(https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/)
〇編著書
・黒田基樹『戦国大名 政策・統治・戦争』(平凡社、2014年)
・黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』(平凡社、2022年)
・柴裕之『戦国史研究叢書12 戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』(岩田書院、2014年)
・戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)
・谷口克広『織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺まで』(中央公論新社、2002年)
・谷口克広『織田信長家臣人名辞典』第2版(吉川弘文館、2010年)
・谷口克広『信長と家康―清須同盟の実体』(学研プラス、2012年)
・日本史史料研究会監修・平野明夫編『家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像』(洋泉社、2016年)
・平野明夫『徳川権力の形成と発展』(岩田書院、2007年)
・平山優『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館、2014年)
・平山優『武田氏滅亡』(KADOKAWA、2017年)
・平山優『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』(NHK出版、2022年)
・平山優『徳川家康と武田信玄』(KADOKAWA、2022年)
・藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』第2版(思文閣出版、2017年)
・本多隆成『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』(吉川弘文館、2019年)
・丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版、2011年)
・丸島和洋『戦国大名の「外交」』(講談社、2013年)
・渡邊大門編『家康伝説の嘘』(柏書房、2015年)
・和田裕弘『織田信長の家臣団-派閥と人間関係』(中央公論新社、2017年)
〇論文
・小笠原春香「駿遠国境における徳川・武田間の攻防」(久保田昌希編『松平家忠日記と戦国社会』(岩田書院、2011年)に所収)
・柴辻俊六「柴田勝家発給文書とその地域支配」(『織田政権の形成と地域支配』(戎光祥出版、2016年)に所収)
・平野明夫「松平庶家とその家中」(『愛知県史研究』7巻(2003年)に所収)
・丸島和洋「北条・徳川間外交の意思伝達構造」(『国文学研究資料館紀要』11号(2015年)に所収)
〇図録
・「家康を支えた一門 松平家忠とその時代~『家忠日記』と本光寺~」(駒澤大学禅文化歴史博物館、2019年)
・「特別展 安城ゆかりの大名 家康を支えた三河石川一族」(安城市歴史博物館、2018年)
・「特別展 Gifu信長展-もてなし人信長!?知られざる素顔-」(岐阜市歴史博物館、2017年)
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