佐久間甚九郎・佐々一兵衛宛徳川家康書状に関する考察

 尚々、其表之躰、委大六ニ可被仰越候、此方人衆之事可為御さ右次第候、
信長御馬向江北被出之由承候、寔寒天之中如何、無御心元存候て、大六進之候、模様具可承候、人衆等於御用ハ、何時も可申付候、信長へ直札以申上候、御取成憑入候、猶彼口上ニ申含候、恐々謹言、
   十一月廿六日          家康(花押)
     佐久間甚九郎殿
     佐々一兵衛殿

(「佐久間正勝・佐々一兵衛尉に遣れる書状」『新訂徳川家康文書の研究』)

 上記は深溝松平家に伝来した徳川家康書状(「松平千代子氏所蔵文書」江戸時代、18~19世紀)である。写真は下記のURLを参照のこと。

作品詳細 | 伝徳川家康書状 佐久間甚九郎(正勝)・佐々一兵衛尉宛 十一月廿六日 | イメージアーカイブ - DNPアートコミュニケーションズ (dnpartcom.jp)

 東京帝国大学名誉教授の中村孝也は『新訂徳川家康文書の研究』のなかでこの書状を考察している。それは、元亀元年~天正元年までの織田信長の動向を概観し、「思うに二年十一月信長は江北に出動しなかつたのである。しかし出動し得る可能性は存在したのである」と述べた上で元亀二年十一月二十六日付の書状と比定した。そういうわけで、この書状が元亀二年に発給されたとする明確な根拠は存在しないのである。しかし、中村による年次比定は、近年では『織豊期主要人物居所集成』や所蔵先の徳川美術館における展示解説でも採用されており、史料を用いた考察を経ることなく定着してしまっているのが現状ではないかと思われる。

 本稿では、徳川家康が本書状を発給した背景を史料を用いて見直すことを目的とする。

 結論から述べてしまうと、筆者は本書状を「元亀三年」の三方原合戦の直前に発給されたものではないかと考察する。

如御札二俣手塀際へ被押詰、殊方々ニ候水之手五三日以前被取之候間、天流之水を汲候、依之被厳船城岸へ被着置、紋を切候間、是も一円不叶、三日中可為落居候条、可被御心安候、一 自尾州熱田罷越候者如申者、彼越衆於于江北遂一戦、濃・尾者数多討死之由申候哉、剰大身之人二三輩越前へ同意仕之段、弥以可然存候、猶実儀之使江届、重而可蒙仰候、一 海賊田原表放火候欤、彼動之様子委承度候、一 貴辺御出陣之儀、何時も秋伯令談合、可申届間者、無御気遣御在滞尤候、一 御息九八郎殿・源次郎殿、其外御親類衆暦々、爰元御在陣之条、大細共申合候、可為御喜悦候、万端御吉左右自是可申宣候、恐々謹言、
 追而爰元へ申来候、日野之蒲生越前へ同意之由候うへハ、此所之使江届候、実説待入候、以上、
   十一月廿七日          山三兵/昌景 判
     奥美/御報

(愛知833 「山県昌景書状写」『松平奥平家古文書写』)

 これは、元亀三年十一月二十七日に徳川方の二俣城を攻囲していた山県昌景が、奥三河山家三方衆の奥平定能に宛てて発給した書状である。当時、武田方は城際まで押し寄せて複数の水の手を既に抑えており、二俣城は陥落間際であった。そして、山県は本書状に複数の情報を書き込んで、奥平に伝達している。これらの情報を箇条書きにすると以下の通り。

①熱田からやって来た者から聞いた風説で、朝倉方が江北における合戦で織田方を打ち破り、美濃・尾張の武者たちが多数討死し、織田方のうち大身の者二、三人が朝倉方に寝返ったという。まことにもっともである。

②海賊が三河田原表で放火を実行したか、状況を確認したい。

③奥平定能の出陣については秋山虎繁と相談した上で命令するのでお気遣いなきよう。

④嫡男の信昌や源次郎たちの御親類衆はこちらに在陣しています。

 本稿では①の内容に注目したい。江北における朝倉方の合戦で織田方が大敗し、多数の者が討死したという風説が述べられており、また、「日野之蒲生」(蒲生賢秀か)が朝倉方に内応したので、実説が届くことを山県は待ち望んでいるというのである。

 これはあくまで風説に過ぎない。太田牛一『信長記』によると、実際には虎御前山から宮部までの間に築かれた柵を引き崩すため、元亀三年十一月三日に朝倉・浅井勢が進出してきたが、羽柴秀吉によって撃退されている。

霜月三日 浅井 朝倉人數を出し虎こせ山より宮部迄つかせられ候築地可引崩行として 浅井七郎 足軽大将にて先を仕懸り来候則
  羽柴藤吉郎 人數を出し取合
 梶原勝兵衛  毛屋猪介  富田孫六
 中野又兵衛  瀧川彦右衛門
先懸にて散〳〵に暫相戦追崩し高名無比類

(池田家本『信長記』巻五)

 しかし、元亀三年十一月末に武田方が攻囲していた遠江二俣城周辺で「江北における織田方の大敗」の風説が流布していたというのは事実である。そして、浜松城に在城して武田方の動静を伺っていた家康が同様の風説を耳にしていた可能性を想定できるのではないか。

 本稿で焦点となっている書状を改めて見直してみる。「信長御馬向江北被出之由承候、寔寒天之中如何、無御心元存候て、大六進之候」(信長が江北に向けて出陣したことをお聞きしました。寒天の中にも関わらずどうしたものであろうと心配なので、小栗大六を派遣しました)と記している。また、「人衆等於御用ハ、何時も可申付候」(援軍の派遣が必要であれば、何時でも申し付けます)ということを信長への「直状」でお伝えしたいので、佐久間信栄(織田家宿老である佐久間信盛の嫡男)・佐々主知(越後上杉氏に対する織田方の取次を担当)に取り成してもらうよう依頼している。

『信長記』などの史料より、元亀元年~天正元年までの期間の十一月二十六日前後に信長自身が江北に出陣したという事実は見当たらない。しかし、遠江周辺で流布していた「江北における織田方大敗」の風説を聞きつけた家康が、信長の安否状況を確認するために本書状を所持させた小栗大六を派遣したのではないかと考えてみたい。

 本書状を「元亀三年」に発給されたものとして考えると、徳川家康は武田信玄の脅威が眼前に迫りつつある中でも、必要に応じて織田信長へ援軍を派遣する意志を持っていたことが分かる。それは、信長と家康との間で結ばれていた、いわゆる「清須同盟」による連帯が一つの理由であるが、さらなる要因もあったのではないかと思われる。

至中島表令進発、既信長励戦功、近日可討果分候、雖畿内其外諸卒数万騎馳集、外聞候間、此節家康遂参陣、抽軍忠者可悦喜候、織田弾正忠無用通申由候へ共、先々任約諾旨、不移時日着陣頼思召候、委曲藤長可申候也、
 九月十四日     (花押)
  松平蔵人殿

(「武田神社文書」『山梨県史』資料編4 205)

 これは元亀元年九月十四日に徳川家康に送られた足利義昭御内書である。当時の義昭は朝倉・浅井方に与同していた三好三人衆を退治するために、信長とともに摂津野田・中島に布陣していた。その内容は、「近日中には三好三人衆を討ち果たすことができるであろうが、『外聞』があるので家康も参陣すること。信長は(家康の参陣は)無用であると言っているものの『先々任約諾旨』て着陣を期待する」ことが記されている。

 平野明夫や柴裕之は、上記の義昭御内書などを参照して、将軍義昭・信長・家康の三者の関係において、家康が義昭との「約諾」による直接的な関係を基にして、信長への支援活動を行っていたことを指摘する。このような三者の関係は三方原合戦の直前においても機能していたことが下記の史料からも判明する。

対当国、武田光禄手出候、就其被成下 御内書、寔外聞忝奉存候、此州之儀、手置涯分弓断無之候、其上自岐阜も出勢候間、示合数度敵陣追々と雖相動、一円不及戦体候、時宜可御心易候、猶委曲期幸音候、恐々謹言、
 十一月十九日    家康(花押)
 朽木弥十郎殿

(「鹽川利員氏所蔵文書」『新修徳川家康文書の研究』49頁)

 この文書で徳川家康は、信玄の侵攻に対抗して義昭御内書が下されたことを感謝している。そして、信長から援軍を得た(「其上自岐阜も出勢候間」)上で数度の小競り合いはあったものの、大規模な合戦には至らないのでご安心ください、と記している。

 ここまで述べてきたが、信長と家康との間で実施されていた相互支援(援軍の派遣や物資の補給など)は、「足利義昭を支える室町幕府の構成員であること」を前提条件としていたことが理解できるであろう。本稿で焦点となっている徳川家康書状についても同様の背景に基づいて発給されたと考えれば、滅亡の危機に瀕していたはずの家康がわざわざ信長に援軍派遣を明言した意図が見えてくるのではないか。

※本稿は2021年12月24日に投稿した内容に、一部追加・修正を行った上で再投稿したものである。


【参考文献】

・愛知県史編さん委員会『愛知県史 史料編11 織豊1』(愛知県、2003年)

・柴裕之『戦国史研究叢書12 戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』(岩田書院、2014年)

・中村孝也『新訂徳川家康文書の研究』(日本学術振興会、1980年)

・平山優『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』(NHK出版、2022年)

・平山優『徳川家康と武田信玄』(KADOKAWA、2022年)

・藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成 第2版』(思文閣出版、2017年)

・本多隆成『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』(吉川弘文館、2019年)


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