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英語の二次的主語或いは二重主語について―象は鼻が長いの意味5―

先達アストンのご共有につきまして

 さて、皆さん。欧米の研究者の中で、日本語と韓国語/朝鮮語との双方を研究した、恐らく最初期の先達のお一人であろうとして、知られる、ウィリアム・ジョージ・アストン先生(1841-1911)をご存じでしょうか。
 ご著作『日本語と朝鮮語の比較研究/A Comparative Study of the Japanese and Korean Languages』が、大野晋先生のご翻訳にて、池田次郎・大野晋 編『論集 日本文化の起源 第五巻 日本人種論・言語学』平凡社1973にて、ご確認可能です。なお、英語の原文は、JSTOR様でご確認が可能です。下記、引用いたします。

Japanese and Korean nouns are, like such English words as money, wheat, etc., not distinctively either singular or plural. . . . it is only a very small proportion of Japanese or Korean nouns which allow a numeral to be immediately prefixed to them. Nearly all are like the English words just mentioned. Just as we must say, not 'six wheats,' but ' six grains' or ' six bushels of wheat,' not ' six moneys,' but 'six pounds' or 'six coins,' a Japanese or Korean cannot say 'two merchants,' but must use an expression equivalent to 'merchant―two man' or 'merchant―two piece.'

https://www.jstor.org/stable/25196833

  私訳:日本語及び韓国語/朝鮮語の名詞は、英語のマネーやウィート(小麦)等と同様、弁別的な単数形でも複数形でもない。(中略)日本語及び韓国語/朝鮮語の名詞で、数詞を直接その前に付けることができるものは、ごく一部のみであり、ほとんど全てが、今挙げた英単語と同様である。英語でも、「六ウィート(小麦)」ではなく、「ウィート(小麦)の六粒」または「ウィート(小麦)の六ブッシェル」と、「六マネー」でなく、「六ポンド」または「六硬貨」と、言う必要があるのと同じことで、日本語、韓国語/朝鮮語では、「二商人」とは言えず、「商人、二人」または「商人、ニピース」のように言う必要がある。

 大変、僭越ながら、卓見だ、と存じます。同時に、こちらは、外国語が母語の日本語学習者の方(また韓国語/朝鮮語学習者の方)に取って、宝物のように貴重なご共有でもあるもの、と存じます。なぜそう存ずるのかにつきましては、下記、ご覧くださいませ。

「一本のビールを飲みました」に対する違和感について

 実は、私、中国語が母語の方に日本語をお教えすることが時々あるのですが、典型的な事例のようなものに、

 ×△「一本のビールを飲みました」

というのがあります。恐らく「喝了一瓶啤酒」等の直訳のようなものなのでしょう。中国語についてお詳しくない方のために、非常に簡単なものですが、敢えて直訳的に図示して対照してみます。

喝了一瓶啤酒(直訳:一本のビールを飲みました)

 助数詞(中国語では量詞と言う)の後、その数が普通に数を表している場合、(「の」に対応するとされる助詞)「的」は付けません。なお、絶対付けられないのかどうかは不明です。また、その数が普通に数を表すというのとは違うような場合、例えば状態とかを表す場合、「的」を付ける模様です。但し絶対に付けないとならないのかは不明です。
 少なくとも、中国語が母語の方に取って、(喝了)一瓶啤酒というのは、日本語で考えた場合の「一本のビール」のような、名詞と名詞との接続(国語文法でいう所の連体修飾)だ、というご認識に、恐らくなるものなのでしょう。このような経緯で、上述のような直訳的な日本語表現が出て来るもの、と推察されます。
 このような事例は、専門的には「言語転移」というのでしょうか。因みに、私は「母語の干渉」のように習った記憶がありますが、最近はそういう言い方は余りしないのかもしれません。
 さて、ですが、この「一本のビール」という言い方は、日本語では(そして、韓国語/朝鮮語でも)、普通の言い方ではありません(先達アストンもそういう言い方をすべきだとご認識ではありません)。「一杯のかけそば」と言えば、それは何かしら普通でない、特別な「かけそば」なのであって、普通の場合「かけそば、一杯」とすべきです。「英雄を一人失った」は、普通の英雄について述べる言い方で、「一人の英雄を失った権利関係について問題ある場合、誠実に対応致します)」は、特別な英雄について述べる言い方です。

 ×△「一本のビールを飲みました」
 〇「ビール(を)一本、頂きました」

 「〇」のついた言い方のように、言う必要がある、と日本語学習者の方に共有します。私は、中国語が少しは話せるので、下記内容の一部を中国語で説明してしまうことも多いのですが、勿論、説明すること自体は目的ではないので、学習者の方の理解と応用とが得られるよう、教授法を色々と工夫しようとしておるつもりではおります。

1.「一本のビール」というのは、特別な意味合いのビールという意味になるので、普通の状況では使わないべきで、「ビール(を)、一本」のように言う必要がある。なお、この事は(その全体像の全てについてかは措くとしても)、欧米の(日本語、韓国語/朝鮮語の)研究者が19世紀後半には既に気づいていることなので、数量詞遊離のような、言語学者の先生方の難しい議論については、それは言語学に於ける議論なのだ、という理解で問題無い。

2.日本語の時や数を表す言葉の多くは(時数詞と名付けて)、普通の用法としては、その後、助詞は不要と指導(江副隆秀『日本語の助詞は二列』創拓社出版2007p30-35)。「ビール、一本を」とするとそれは、「一本」を特定する言い方になるので、普通の状況について言うなら、一本の後、「を」は不要。そして、たとえ教科書には載っていなくても、日本語には「時数詞」という品詞が存在すると考えた方が、(日本語が母語の人も含めて)助詞の使い方が(助詞を使うべきか使わないべきかの判断も含めて)正確になるものと考える。日本語の時や数を表す言葉の多くは、そのほとんどが時数詞だと思って大丈夫。因みに、韓国語/朝鮮語には、時数詞という品詞は設定できない(濱田敦『続・朝鮮資料による日本語研究』臨川書店1983)。韓国語/朝鮮語の場合、名詞の中の一部の慣用的な語彙については、(副詞的用法とされるような場合であっても)助詞を付けなくてもよい。そして、そのような慣用的に無助詞で使える名詞に、適切な助詞を付けても、例えば、어제(対応する日本語:昨日)を、어제에(対応する日本語:昨日に)と言っても、両者の意味に違いはないが、日本語では両者の意味は明確に異なるので注意が必要。日本語の場合、「に」を使うと、それは「昨日」を特定する言い方になるので、普通の状況について言うなら「昨日」の後、「に」は不要。なお、時数詞という言葉、概念、品詞を最初に提唱なさったのは、吉澤義則先生(1876-1954)でいらっしゃる。林巨樹・池上秋彦・安藤千鶴子 編『日本語文法がわかる事典 新装版』東京堂出版2022によると、吉澤義則『日本文法 理論編』1950が、その(時数詞に関する最初の)ご共有であるようである。因みに、「形容動詞」という言葉を提唱なさったのも、吉澤義則先生である。前掲書によると、吉沢先生は、(いわゆる形容詞の)「かり活用」まで含めて形容動詞となさったが、橋本進吉先生のお考えに沿う形で、それ(かり活用)は形容動詞から除外され、現在の学校の国語文法の品詞の分け方に繋がっている、とのことである。

3.書くときは「ビールを一本、」とすべきだが(これは書くときの美意識、書かれたものを見るときの美意識から来るものである。もっと言えば漢字やカタカタの後に平仮名が入っていた方が読みやすいような気がするから)、話すときは「ビール、一本/ビール一本」が普通。「を」というと「ビール」を特定する表現になるので不要。なお、ビールと一本との間にポーズ有ることもあるが、ポーズ無しも普通である(「一本」の類の言葉が「ビール」の類の言葉に、複合名詞的に、或いは助詞のように、接続しているのではないかという見方も成り立つものと思われる)。書く際に読点を打つかどうかは、(書くとき、書かれたもの見るときの美意識のようなものから来る)作者の好みの問題であり、読点は必ずしもポーズを意味するわけではない。

4.「飲みました」ではなく「頂きました」とすべきである。詳細は別途共有。「飲みました」などは、クライアント、お客さん、上司には絶対に使えない。N1、N2を持っているというのが企業側等の採用条件なら、このレベルの内容は必須であるものと心得よ。

5.日本語には語順の自由な側面があるので、特に話す際「一本、ビール、頂きました」「頂きました、一本、ビール」「一本、頂きました、ビール」と、どれで言っても問題は無いが、基本は「ビール、一本」の語順だと心得よ。なお、日本語では、上述の3通りに言った場合にも、「一本」と「ビール」との間に「一本のビール」と同じ文法構造があると解釈されることはあり得ない。

数量詞遊離についての久野暲先生・高見健一先生のご共有

 さて、久野暲・高見健一『謎解きの英文法 副詞と数量詞』くろしお出版2015p221-223に下記のご共有がございます。一筋の光明が差して長年の疑問にやっと解決の糸口が見えてきたもの、と存じております。両先生に、心より、感謝、ご尊敬を申し上げます。私と同じ疑問に苛まれておいでの方に、また、(僭越とは存じますが)生徒さんのご質問に答えることができずに困っていた英語の先生方に是非、ご覧いただければと存じます。非常に重要な部分かと存じますので、少々長くなりますが、可能な限り正確に引用いたします。

●遊離した数量詞は「二次的主語」として機能(※原文はここまで下線付き)
 遊離した all, each, both などの数量詞は、それらが修飾する名詞句と「同格」関係にあり、その名詞句の「代名詞」として機能しています。したがって、たとえば次のような遊離文では、主語がいわば2つあることになります。
※下記に続く部分、表示の問題で下記のように引用いたします。

久野暲・高見健一『謎解きの英文法 副詞と数量詞』くろしお出版2015p221-223
※表示の問題により一旦引用枠から離れて引用

(31)では、all of the committee members と言う代わりに、all を遊離することで、すでに述べたように、会議に出席したのが、委員会のメンバー全員であり、誰一人欠席しなかったことを強調しています。ここで重要なのは、遊離した all は、 the committee members(※原文は改行に伴うハイフン有るが引用表記の都合上削除)と同格の代名詞主語ですから、その代名詞主語を叙述する要素 present at the meeting がそのうしろに続いている点です。そして、all と present at the meeting は意味的に「主述関係」(=主語と
述語の関係)を形成するため、これらがひとつのイントネーション・ユニットとして発音されます。この主述関係は、「全員」のあとに「その会議に出席していた」という述語的要素がある(31)の日本語訳からも明らかです。そのため、all を主語とする述語的要素が、all のあとに続かないような次の文は許容されません。

 (32)a. *The committee members were present all at the meeting.
               b. *The committee members were present at the meeting all.

(32a)の all のあとの at meeting は、「会議に(出席していた)」という意味から分かるように、were present を修飾する副詞句であり、all(=the committee members)を叙述する述語的要素ではありません。また(32b)では、all のあとに何の述語的要素も続いてはいません。
 Each や both についても同じことが言えます。

久野暲・高見健一『謎解きの英文法 副詞と数量詞』くろしお出版2015p221-223

 両先生は、上記のような形の、いわゆる遊離した all, both, each について、
a)代名詞同格だとお認めです。そして、
b)そのような遊離した all, both, each は意味的にも機能的にも主語であり、そのような遊離数量詞と呼ばれるものに「二次的主語」という、新しいご名称をお与えです。
c)(すると当然のことながら)そのような遊離した all, both, each を伴う文には(いわば)主語が2つある、とお認めです。
d)そして、名詞句の直前に置かれる all, both, each については、

その名詞(句)を修飾する形容詞として機能したり、(後略)

久野暲・高見健一『謎解きの英文法 副詞と数量詞』くろしお出版2015p211

とお認めです。

e)前置詞句の of ~ を伴うものについては、

(前略)前置詞句の of ~ を伴って、(代)名詞として機能したりします。

久野暲・高見健一『謎解きの英文法 副詞と数量詞』くろしお出版2015p211

とお認めです。
 こちらのご共有を拝読する限り、数量詞遊離と呼ばれる言語現象については、文法構造がそのままで、位置や語順だけ変わっている、というご認識ではなく、文法構造(もしくは文法の機能)も変わっている、というご認識なのだ、という認識で正しいものと私は存じますが、皆さん、いかがでしょうか。
 誠に僭越ながら申し上げます。勿論、こちらは、両先生のご研究のご成果、ということなのであって、こちらが、英語学や、学習教育英文法(大津由紀雄 著 編(他著作者多数)『学習英文法を見直したい』研究社2012)を代表するようなものである、と言えるのかについては、私には分かり兼ねることでございます。しかしながら、数量詞遊離と呼ばれるものについて、具体的な背景をご提示の上で、ここまで明確にご共有くださる方を、私の不勉強はさて措くとして、両先生の他に私は存じ上げない次第でございます。重ねまして、両先生に、心より、感謝、ご尊敬を申し上げます。

二重主語は英語にもありき

 そう致しますと、こちらの投稿『英語にも象鼻文が!?ー象は鼻が長いの意味3ー』で申し上げたことは、大変僭越ながら、両先生のお考えに限り無く近いもののように思われます。英語にも、「象は鼻が長い」に類似する、いわゆる二重主語のような、表現、構文は、実はあるのであって、また、私がこちらの投稿『英語にも象鼻文が!?ー象は鼻が長いの意味3ー』で申したように、そうすると、half や part にも、二重主語のような言語事実があるのではなかろうかと、疑問は更に深まるものと存じます。
 私は、(そのような)half や part は、代名詞相当語として捉えるか、文法構造上、或いは機能上、代名詞(で二次的主語)なのだ、とするのが、少なくとも「学習教育英文法(大津由紀雄 著 編(他著作者多数)『学習英文法を見直したい』研究社2012)」としては分かりやすいのではないか、と存じます。と申しますか、僭越ながら、そうとでもするか、その他の何かしらの代替案によるかでもしないと、学習者は、延々、混乱し続けるのではないでしょうか。そして、

 An elephant is (the) trunk part long and (the) body part big.

 のように(は恐らく言えないのでしょうが)言えないのであれば、文法的には正しいが、そうは絶対言わない表現なのか、それとも、根本的に文法的におかしいのか、ネイティブスピーカーの方のお力もお借りして、理解を深めていく作業、そして、その成果を共有していく作業が大事になるのではなかろうかと、大変僭越ながら存じます。皆さん、いかがでしょうか。右、取り急ぎ、ご共有申し上げる次第でございます。引き続きまして、何とぞよろしくお願い申し上げます。

追記:
 久野暲・高見健一『謎解きの英文法 副詞と数量詞』くろしお出版2015で扱っている「数量詞遊離文」について、同書256頁に「付記」としてご説明がございます。要約して引用します。

 「生成文法」と呼ばれる文法理論には、数量詞遊離文と呼ばれるものに対して、立場が3つある。all the ~、all of the ~のような文の状態から、
(i)数量詞が右方向に移動して派生した、と考える立場
(ii)元々動詞句内にそのような名詞句があり、the ~の部分だけ、主語位置に、つまり左方向に移動して派生した、と考える立場
(iii)別の文から派生するのでなく、独立して基底生成(base-generate)される、と考える立場
 慣例に従って「遊離」という表現を用いるが、(i)や(ii)の立場を取っているわけではなく、数量詞遊離文が派生によって生じるのか、あるいは基底生成されるのか、という点については議論しない。

久野暲・高見健一『謎解きの英文法 副詞と数量詞』くろしお出版2015p256より要約引用

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