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ひと、とのキョリ、のはかり方

オンラインばっかりだった大学の授業も、週に一回、大学での対面授業が始まった。

話し合い形式の授業で、先生は生徒に任せて口出しはしない。

気心知れた友達と、顔だけ知っている子たち、全員で8人。だけど、意見を出し合うのは、疲れる。

相手はどう思うのだろう、相手に居心地のよい雰囲気を作りたいと、気を回す。

グループの一人が話をさえぎって、自分の意見を言ってしまう。

すこしのことばのえらびかたのちがいで、きもちのボタンが掛け違う。

目の前で起こっていることすべて、ぐるぐるともうせいぎょできない。

その日、どっと疲れて、家に帰るなりベットへ倒れこんでしまった・

相手に気を使わせないよう、あまりなにもかんがえず、じぶんのおもうようにふるまっているみたいに見えるように、細かく微調整してこの場をうまく回しているんだよと誰かに叫びたくなる。

私のやっていることは、別に頼まれたわけじゃない。だから感謝されないのはわかってる。それに、気づかれないようにやっているから、気づかれないのは仕方ない。でも自分のエゴが、ひょっこりかおをだして、すこしくらいねぎらってよと拗ねてしまう。

すこしでいい、きづいてほしいとそう思う。

わたしは一対一で、ひととすごすのが好きだ。

それは、目の前にいる相手だけのことを考えていればいいから。

大人数になれば、フォローをしなくてはいけないひとがふえる。

だから、珍しく、高校の時4人で仲良しなグループがあったが、わたしは一人ひとりとしっかり関係があった。ひとりひとりと仲良しだった。

でも、このグループディスカッションはそうじゃない。堅苦しい雰囲気の中自分の言いたいことだけをまるで機関銃のように相手に向かって投げかけているだけ。言葉のキャッチーボールができていない。

そのような雰囲気に耐えられないのであれば、私がもうすこし、配慮をすれば自分も、みんなもきもちがよかったのだろう。

でも、キャパオーバーだった。ここ1年、大人数で集まることはなかったから、コミュニケーション能力がゼロに戻ってしまった。

コミュニケーション能力は、生まれてから育つ間に経験で身につくものだと思っている。だからこそ、人と話さないとその能力はさび付いてしまうのだなあと思った。

ひととのキョリのはかり方。むずかしいな。


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