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“神”降臨で語る創作賛歌『セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記』

 新型コロナウイルスによって変えられてしまったものは数えきれないほどあるが、その一つが「仮面ライダー映画のスケジュール」である。

 通例であれば春映画として公開されていたであろうクロスオーバー枠が、こうして夏真っ盛りに上映されている。本来であれば『仮面ライダーセイバー』の長編と『機界戦隊ゼンカイジャー』の短編の二本立てが公開されていたはずで、とくにライダーサイドはTVシリーズのクライマックスを間近に控えたタイミングであるがゆえに劇場版がその作品の集大成であり、終盤を盛り上げるキーポイントとなっていただけに、我々ファンにとっても作品との向き合い方に変化が訪れている。何はともあれ、こうして定期的に新作映画が公開されると、少しずつ「日常」が戻ってきたような錯覚がするから、不思議なものだ。

 そんな「春映画の顔をした夏映画」な本作は、“いかにも”な展開で幕を開ける。唐突すぎる飛羽真のスランプと問題提起、世界移動という大きな出来事をすんなり受け入れるキャラクターたち、イマジン、映画村、ヒーロー抹殺のために途方もない計画を実行する悪役……。ある種の懐かしさがこみ上げてくるその手触りはまさに春映画そのもので、おなじみ採石場を舞台にしたクライマックスバトルでもその旨味は健在だ。

 しかし、本作は仮面ライダー50周年×スーパー戦隊45作品記念であり、アニバーサリーが大好きな我らが東映、いや、白倉大首領がただのスーツアクター大集合映画に終わらせるはずがなかった。かのビッグボスが本作に用意したのは、もはや「反則」とも言うべき存在、神を降誕させることである。

以下、本作のネタバレを含みます。

 放送中のセイバーが物語を紡ぐ作家が主人公であり、物語論として仮面ライダー、スーパー戦隊のこれまでの軌跡を語る、という本作。作家である飛羽真は、物語を創造する「神」として、愛すべき登場人物に苦しい思いをさせることへの葛藤を抱くのだが、彼は同じく産みの苦しみに喘ぐ少年と出会う。その少年こそ、かの石ノ森章太郎御大その人であった……!!いやいや、マジかと、ついにやったぞと、頭の中で大首領の高笑いが聴こえてくる。

 ご存じ、仮面ライダーとスーパー戦隊の生みの親である石ノ森章太郎。我々ファンも常に神と崇める大先生なのだが、本作では高校生としての章太郎青年が登場。彼はたくさんのヒーローを目の当たりにすることで「本当に自分が書きたいヒーロー」がわからなくなり、ヒーロー漫画を描くことを諦めてしまう。それは、やがて生まれたはずの仮面ライダーとスーパー戦隊、その存在が全て消え去ってしまうほどの決断であり、それこそが宿敵アスモデウスの目的だったのだ。

 まず驚くべきは、ヒーロー大集合映画としてのお祭りの機能を果たしていた春映画を、公式自ら一旦は否定する、というギミックだ。昭和から平成、令和にかけて歴史を折り重ねてきた仮面ライダーとスーパー戦隊だが、その集積を(これでもまだ断片とはいえ)一気に浴びたことで、本来石ノ森章太郎自身が生み出すはずだった「原点」を彼自身が見失ってしまう、という筋書き。これを、平成ライダーのムーブメントの仕掛け人として長きに渡り動いてきた白倉P自身が送り出す。破壊と創造を繰り返し、「メタ」そのものを物語として躍動させる、『ディケイド』『ジオウ』で完全に味を占めた東映イズム全開の展開に、思いもよらぬ興奮が駆け巡ってくる。

 そこからの展開は、怪作『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』を思い出したファンも多いはずだ。本当に書きたいものを模索する章太郎青年の中に燻る、「正義を描くと必ずそこに悪が浮かび上がってしまう」という苦悩。力で悪を打倒しても、ヒーローは暴力の行使者ではあるため、その本質は同じであると、すでに見抜いていたのである。

 しかし、我々は知っている。仮面ライダーとは元来、「敵に与えられた力で悪と立ち向かう」ヒーローであることを。悪と正義が表裏一体であり、その力を振るう目的にこそ正義が宿るのだと。つまり、章太郎青年が抱える葛藤が逆説的に、50年以上に渡り続いていく仮面ライダーとスーパー戦隊のルーツであることを、今一度見つめ直すことでヒーローの歴史が「再生」する、という途方もない感動が襲い掛かってくるのだ。

 その気にアテられたのか、アスモデウスも「お前らも所詮二次創作だ!」と現行のヒーローを煽っていくのだが、そんな敵に「一次も二次も関係ない!!」という力強いお言葉でレスをする。このお言葉に勝てる存在がいるはずないではないか。仮面ライダーとスーパー戦隊の、これまで紡いできた歴史を作品自ら肯定してみせるという、『平成ジェネレーションズ Forever』『Over Quartzer』の再演としてのクライマックスの展開は、ヒーロー集合の画よりも言葉一つ一つが、「圧巻」の一言だった。やっていることはいつもの春映画なのに、神=石ノ森章太郎のお墨付きがあるだけで、なんだかとてもスゴイものを観させていただいているという実感があるのだ(ご本人ではなく鈴木福パイセンが演じているキャラクターなのに!)。

 何度も言う通り、本作のやっていることは「反則」なのだけれど、石ノ森章太郎先生の生前のお言葉を引用されれば我々はひれ伏すしかないし、そこに藤岡弘、氏の気持ちのこもった言葉が乗ることで、真実味を帯びてしまうあたり、またしても白倉Pにやられた!完敗です!と唸るしかない一特撮ファンなのであった。

 いやしかしそれにしても、それを上回る情報量の多さで『仮面ライダーリバイス』のエピソード0が始まるとは、マジのサプライズだった。悪魔と契約した一人で二人のライダーが風呂に入ったりディケイドっぽいフォームになったり『カメラを止めるな!』のあのお二人が出演なされたりと、もうわけがわからなくなってくる。今回はこのノリで行きます!というゴーカイすぎるテンションに、公開初日初回の上映に立ち会った場内のキッズたちは大興奮であったことをお伝えして、本文を締めたいと思う。仮面ライダーの歴史って芳醇だよね、ウォズ。


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