スパイスな夜
「小説家は、毎日波乱万丈な人生じゃないとやってられないね」唐突にエビアンを飲みながら、彼が呟くので、「そうなのかなぁ」と考えてみる。
考えてみれば、平和で幸せぼけしているときなんて、頭がお花畑のような美味しそうな料理の投稿ばっかりしていて、言葉なんて何も紡げない。
ただただ、「幸せだー」しかなくて、半年くらい前の私の投稿は確かにそうだった。
女子なんて、案外単純なものだと思う。目の前の人が大好きで、目の前の人が大好きでいてくれることを確信できれば、仕事がうまくいってなくても、世の中が不況でも、幸せなんです。
最終の特急の窓に目をやると、真っ暗な景色が広がっていて、飲みかけのエビアンの先に、電灯のあかりに照らされるチリかけの桜が過ぎていくのが見えた。
急に思い立って、出かけた一泊旅行。特急列車に揺られて、2時間ほどでトリップできるその場所は、日帰りでも行ける小旅行のような場所で、自由気ままに遠くに行きたい私たちのような人間にはぴったりの場所だった。ゆるい1泊を過ごした旅の夕方、彼が、「せっかくだから仲のいい女友達が最近開いたアジア料理の店によってもいい?」と言い始めて、最終電車の2時間前に立ち寄った。
お店は、寂れた道の途中にポツンとあった。青いネオンが点灯しているこざっぱりとした店。
「えー、きてくれたの。嬉しい。」と高い声の女店主に、「いい店になったじゃん」と軽いハグをしている彼を横目に店内を見渡す。田舎のくせに小洒落たセンスじゃないか。
7席でいっぱいになるカウンターの端っこに座って、店内を眺めていると、しばらくして、店主おすすめという絶妙なスパイス料理が出てきた。
クミンの香りがそこらじゅうに香って、悔しいけれど、これは絶対美味しいと思った。香りを嗅いで、スプーンでひとすくいする。煮込みのようなその料理は、挑戦的な香りを放っていて、口に含むと鼻にスパイスと色っぽい香りが抜けてきた。努めて、冷静に丁寧に咀嚼する。香りが消え、チキンの旨味が口に残った。
笑顔の先に猜疑心を滲ませる東洋的美人の女店主に、私はいつもの通りの屈託のない笑顔を浮かべて、「これすごく美味しい。」と感想を伝えた。
小さな店内は、アンティークのタイルと味わいのある厚ぼったい皿、手作りの小物に、安っぽいグラスとちぐはぐな空間を作り出し、それがまた、彼女らしい世界観を作り出していた。最近、地方で注目を浴びているワインとエクストラバージンオリーブオイル。そんなこだわりも少し、気持ちをチクリとさせる。
選んだワインが美味しかったのか、春らしい薄いオレンジ色の白ワインをテンション高く飲む彼は、最近美味しかった食の話を楽しそうに語っていて、私は、タマリンドを口に含み、相槌をうちながら、カウンターの下で、そっと彼の膝に左手をおいた。厨房から時折感じるの静かな視線に気づかないふりをしながら、右手だけでワイングラスを傾け、タマリンドをつまむ。カウンターの席は好きだ。程良い距離感と共に、体温を感じ、彼の存在を一番身近に感じる。ひとつの料理をシェアしながら、語る時間は、どこにいてもふたりの時間になる。あっという間の2時間が経ち、私たちは、新宿行きの終電に乗った。
同じ男を共有する女性の手料理をごく正当な手順で食べる機会なんて、人生にはそうないでしょうね。それって、なんかドラマチックじゃない?なんて、脳内でリフレインしながら、桜が散ったら、この男との関係も終わりかなぁとまたまたドラマチックなことを考えてみる。
揺れる車内で、昔のアイドルのヒット曲がふと浮かんだ。「言いたいことなら あなたには あとからあとから あふれてる。私、意外と おしゃべりだわ」
あの歌詞を書いたのは、女性だっけ。
寄り掛かったままの彼の肩にほんの少し余計に体重をかけてみる。言いたいことは、今もずっとあふれてる。あふれすぎてるけれど、言葉にしたら全てが終わるから、言葉に出さないだけだ。
「俺、小説書いてみようかなぁ。」ほろ酔いの彼がふとつぶやいた。開いた胸元から、さっき食べた料理なのか、スパイスの香りがふんわりとこぼれる。
なるほど、小説ね。それなら、私の方が上手に書けるよ。そう思いながらもまたも私は、屈託なく「いいねー。読んでみたい。」と抱きつき、笑顔を返した。
◇
40代なんて、小賢しい。
毎日、毎日、通常運行しているような顔が得意になっていく。
新宿駅で、彼と別れて、スカスカの地下鉄に乗り換え、窓の隅に立つ。笑顔なんて、もう窓には映ってなくて、何にも考えてない無表情な顔がぼんやり浮かんだ。
早く家に帰って、化粧を落として寝よう。明日は、大事なプレゼンだし、提出しなきゃいけない報告書も溜まっている。新人教育にも目を配らないといけない。知り合いの雑誌に頼まれていた2000文字ほどのコラムも書き上げないといけない。忙しい一週間になりそう。
そうだ、ついでに、小説でも書いてみよう。
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