見出し画像

梅雨のはじまり、雨の日はこの映画とともに。

ここ最近の暑さから一転して、朝、窓を開けると涼しい空気が入り込んできた。まるで梅雨の始まりを思わせるような雨だ。

いつも娘のお散歩のために毎日天気予報をチェックしている。今日は一日雨予報だった。分かってはいたことだけれど、朝、窓の外の雨を眺めながら心の何処かで少し落ち込んでしまう自分がいる。

生後まもない娘との生活は、まだほとんどの時間を自宅で過ごすので、毎日のお散歩が楽しみだった。近くの公園の綺麗な紫陽花、開店したばかりの朝の静かな本屋、朝の川沿いの光、近所の静かな神社。そんな何気ない景色が、今の私にはとてもきらきらしたものに見える。けれど、一日雨予報ということは今日は自宅で一日を過ごすことになる。

そう、娘はまだ「雨」というものを知らないのだ。娘が初めて雨を目にするのはいつだろうか。初めて傘を差すのはいつだろうか。娘の目には、雨というものがどう映るんだろうか。

そんなことを考えながら娘の寝顔を見て、もう一度布団にくるまる。今日をどう過ごそうか。まだ眠気の残る頭で思い悩み、そうだ、雨の日にぴったりの映画を観よう、と思いついたところでゆっくりと眠気がやってきた。

--

「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」

雨の日に観る映画、と考えて一番初めに思いついたのはこの映画だった。4年ほど前に観て、とても好きだったウディ・アレン監督のロマンチック・コメディ。音楽や映像が素敵なのはもちろんなのだけれど、ティモシー・シャラメ演じる大学生のギャツビーの雨に対する考え方がとても好きだ。
ギャツビーはガールフレンドのアシュレーとこんな会話をする。

「あとで馬車に乗れる?雨が降らなければ」
「雨でも乗れるよ。ロマンチックじゃないか」

雨の日や曇りの日、知らず知らずのうちに「ああ、今日は雨か。」と気分が落ちてしまうことがある。そんなとき、ギャツビーのように「ロマンチックじゃない?」と返すことができたらいいなぁ、と思う。

そう、雨の日には雨の日の、曇りの日には曇りの日の、良さがある。大好きなよしもとばななさんのエッセイの一節を思い出す。

「雨には雨の幸せがあり、寒くても空気が澄んでいるのを味わい、寝不足なら寝るのを楽しみにしていよう。その場の楽しいこと、美しいことをじっと数えよう。」

人生の旅をゆく2

そして、特に今回見てグッときたのはギャツビーとお母さんとの関係の変化だった。ギャツビーは、裕福な家庭に生まれ、ピアノや読書など教養をしっかりと身に着けるよう母に厳しく教育されてきた。そんな母を疎ましく思っているのか、母とのやりとりにうんざりしているようなシーンや、アシュレーがギャツビーは「母と不仲」と言っているシーンがある。

そんな二人の関係性に変化が訪れる。なぜ母がギャツビーを厳しく教育してきたのか、その正直な思いを母から聞かされたギャツビーはアシュレーにこう言った。

「母は僕の想像をはるかに超えた人だ 過小評価していたよ」

親と子、というどうしても絶対的になってしまいがちな関係の中で、互いが心の奥底で本当に考えていることを素直に伝えるということはとても難しい。

子の前ではカッコよい大人でありたい、きちんとした親でいなければ、そんなことを私もよく考えてしまう。それでも一番大切なことは、「いい大人」「正しい大人」であろうとすることではなく、親の思いを素直に子ども伝えることなのかもしれない。

「日日是好日」

静けさを感じる映画に初めて出会った。
茶室に差し込む光、ぴんと緊張感のある茶室の空気、その静けさの中に流れる水の音…。

この映画に流れているような静けさを私はどこかで感じたことがある気がする。どこでだろう?と記憶を辿ると、そうだ、と思い出した。そう、神社を訪れたときの感覚だった。

神社に流れている、あの自然と背筋が伸びるような感覚、木々の間から差し込む四季折々の陽の光、流れる水の音。そう、その「静けさ」には美しさと、どこか心がホッとするような、不思議な優しさがあった。この映画にも、同じような静けさが流れている気がする。

茶道、と聞くとちょっと敷居が高いような、そんなイメージがあるだろう。
この映画は、森下典子さんのエッセイを原作にしている。読むのに茶道の知識も経験も全く必要はない。そこに描かれているのは、茶道というものを通して一日一日をどう捉えるか、そして人生をどう捉えるか、ということだった。森下さんにとっては、人生を歩んでいく中でそばにあったのが茶道だった、ということなのだろう。

ふと、感受性が研ぎ澄まされる瞬間、というものがある。今まで当たり前のように見えていたいつもの景色が全く違うものに見える、雨粒ひとつひとつの音がはっきりと聞こえる、ふと差した陽の光がとても美しく見える…。

「本物をたくさん見て、目を養うのよ。」

樹木希林演じる茶道の武田先生が器を手にとってじっくりと眺めながらこう言った。

感受性のアンテナは、日々の生活の中で培われていくものだと思う。「本物の美しさ」にたくさん触れ、「静けさ」を感じ、主人公である典子は知らず知らずのうちにどんどん感受性が研ぎ澄まされていったのだろう。

そして、その感受性を豊かに、五感を使って生きていくということの大切さに気付かされる。

「雨の日は雨を聞く。五感を使って。全身でその瞬間を味わう。雪の日は、雪を見て、夏には夏の暑さを、冬は身の切れるような寒さを。毎日が好い日。」

「雨を聞く」という何気ない言葉にはっとさせられた。

今まで雨を「聞いた」ことがあっただろうか?と考えると、ないかもしれない。ただ、何をするでもなく、ただその音を聞くこと、五感を使ってありのままをとらえること。日常の忙しなさでつい忘れてしまいがちな、すぐそばにある美しさを捉え直すこと。

育児をしていると、今まで気がつくことのなかった日々の美しさに出会うことがある。

午前4時、ふと窓を開けてみたら、美しいラベンダー色の朝焼けの空だった。そう、夏はこんなに早い時間からゆっくりと朝が始まっているのだ。30年以上生きているのに、朝焼けの空がこんなに美しいなんて知らなかった。

初めて娘とお散歩した日の、青々とした木々の緑。真っ青な空。その風に吹かれながらすやすやと眠る娘の寝顔。あんなに目に映るもの全てが、きらきらと見えた瞬間は初めてだった。

こんなふうに雨の日も、雨の日ならではの美しさを見つけることができたら、と思う。

「こうして、同じことができるってことが、本当に幸せなんだなぁって。」

武田先生が新年の挨拶でふと言った言葉だ。何事もなく、昨日と同じ今日を過ごすことができること、そして、五感を、全身を使ってその何気ない今日の美しさを目一杯味わうこと。それこそが本当の幸せなのかもしれない。

「アバウト・タイム 愛おしい時間について」

映画は、見るそのときそのときでどのシーンにグッと来るか、どの台詞が自分に刺さるか、変わってくるからとても面白い。何度も映画を繰り返し見ることで、自分の変化に気が付く。まるで、大好きな本の頁を繰り返しめくるように。

この映画を初めて見たのはおそらくかなり前だ。それから何度も繰り返し見ている。この映画を見返すたびに、「本当にこの映画が好きで」と言っていた女の子のことを思い出す。もうなかなか会えなくなってしまったけれど、元気だろうか。映画はこうして様々な記憶を呼び起こす。

今回、とても印象に残ったのは、ティムの家族の温かさだった。ティムの父親は、ティムの結婚式のスピーチでこんな言葉を残した。

「私は人生のおいて誇れるものは多くないが
心から誇れるのは
彼の父親であることだ」

二人で海辺を散歩したり、卓球をしたり、石投げをしたり…。二人がすごく大切に家族の時間を育んできたんだろうと想像させるシーンが数多くあった。
言葉の節々からティムへの愛情が伝わってくる、とても素敵なスピーチだった。

そして、ティムのさり気ない台詞が心に残った。

「お前は最高の人間だ」

自分がひどく落ち込んでいるときに、家族にこう言ってもらえたら勇気づけられるだろうなと思う。

この台詞は、ティムの妹であるキットカットがひどく落ち込んでいるときに、ティムがかけた言葉だ。これ以上の言葉ってないんじゃないだろうかと思う。
「大丈夫?」でも「頑張れ」でもなく、今のままで最高だよ、今までも、これからもあなたは最高だよ、と伝えてあげられるって素敵だ。

ティムとガールフレンドのメアリーの会話もとても良かった。

「雨の日で後悔してる?」
「いいえ ちっとも」
「良かった」
「私たちの人生も同じよ 色んな天気があるわ
楽しんで」

ティムとメアリーの結婚式は大雨だった。それも、まるで台風のような暴風雨。記念の集合写真はみんなびしょ濡れのボロボロだし、パーティー会場は屋外のテントだったのだけれど、それも壊れてしまう。

そんな結婚式だったけれど、雨の日で後悔してる?とティムがメアリーに尋ねる。メアリーはきっぱりと「いいえ」と答える。

メアリーの「人生にも色んな天気がある」という考え方にすごく救われた。今思い返すと、人生には色んな波があって、穏やかな時期もあれば、ものすごく荒れ狂った大波が来たかのような時期もあった。もしまたそんな時期が来たら、この台詞を思い出そうと思う。今はそんな天気の時期なんだ、いつかまた晴れる、と思えばちょっと気持ちが楽になる気がする。

「言の葉の庭」

関東が梅雨入りをした。毎年、梅雨が近づいてくると「ああ、そろそろあの映画の季節だ」と思い出す映画がある。新海誠監督の「言の葉の庭」だ。

高校生のとき、朝何気なく見ていたニュース番組でこの映画の映像が流れた。その美しい映像に目を奪われてしまったことをあれから10年以上経った今でも覚えている。

それから私は東京に住み始め、何度も「言の葉の庭」の舞台である新宿御苑を訪れた。桜が満開の美しい日、新緑の緑が美しい日、夏の日差しが眩しい日、紅葉が美しい秋の日、冬のよく晴れた日…。

それでも、とふと思った。それでも、まだ梅雨の雨が降る新宿御苑は訪れたことがなかった。いつか、この映画を見て、梅雨の雨が降る新宿御苑を訪れてみたい。

この映画を見ると、自分が子どもの頃に大人に対して抱いていた感情を鮮明に思い出す。あの頃、「大人」というのは、自分たち「子ども」とは別の人間で、完全で完璧で、悩みなんて全くなくて、間違うことなんてない人たちのように思えた。

けれど、実際今大人に、そして親になってみて(いつから「大人」になったのかは分からないけれど)、大人も悩んだり間違ったりすることばかりで、あくまで子どもの延長線上にいるだけなんだなぁと思う。

「私ね、上手く歩けなくなっちゃったの、いつの間にか」「それって仕事のこと?」
「色々」

映画の中で、ユキノはタカオにこう言った。そう、タカオから見るとユキノは「大人」で、「何を考えてるかなんて分からない」のだけれど、そんな大人でも上手く歩けなくなってしまう瞬間というものはあるのだ。

「27歳の私は、15歳の頃の私より少しも賢くない。私ばっかり、ずっと、同じ場所にいる。」

子どものとき、自分はどんどん「先に進めているんだ」というように思えていた。小学校の次は中学校に進めたし、その先は高校、大学、そして就職と迷うことなく先へ先へと進むことができた。

けれど、就職してからその感覚がなくなってしまい、私は焦っていた。果たして、自分はこれからどう生きていきたいのか、何をして生きていきたいのかが分からなくなってしまったのだ。日々の仕事に追われ、気が付いたら1ヶ月が、気が付いたら1年が過ぎていた。私はずっと同じ場所にいる。何も成長できていない。みんなは、仕事や家庭、それぞれの居場所でどんどん成長しているのに。私にはばっかりが先へ進めないままだ。

そんなふうに、「歩けなくなってしまった」ことがあった。

「私はね、あの場所で一人で歩けるようになる練習をしていたの。靴がなくても。」

今思えば辛く、悲しい時期をしばらくじっと過ごしていた。けれど、いつの間にか、ふと気が付いたら「一人で歩けるように」なっていた。きっとそれは、離れることなくそばにいてくれた人たちのおかげだったのだと思う。

--

娘の寝顔を見ながらぼんやりと考える。
私はきっと完全な大人ではないし、完璧でもない。
けれども、きっとこれから娘が人生を歩んでいく中で、色んな天気の日があるだろう。上手く歩けなくなってしまったとき、立ち向かうことができないほどの大雨にあってしまったとき、そんなときに「あなたは最高だよ」と、「そんな日もあるよ」と一緒に雨の日を楽しむことができる関係でいられればいいなと思う。

そして、いつか、娘と夫と3人で映画館に行こう。

今年もきらきらと、美しい雨上がりの紫陽花を眺めながらゆっくりと梅雨の時期を過ごせますように。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?