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小説に、救われてきた人生/ただ、待つのみ

ふっと目が覚め、スマホの画面を見るともうすぐ朝の5時だった。下腹部、みぞおちと左肩に軽い痛みを感じ、これはしばらく眠れないかもな、と思った。しばらく目を閉じてみたものの、やはりどの体勢でもどこかに痛みが生じ、そのまま時間が過ぎていくので、一旦再び眠りに入ることを諦めることにする。昨日は久々にぐっすりと熟睡できたが、臨月に入ってからはそういった日の方が珍しい気がする。しょうがないこととはいえ、やはり寝不足だとすでにお腹が重い体がますます重い気がしてしまう。

いつもは私が目を覚めると一緒に目を覚ます夫も疲れて熟睡しているので、ひとりリビングに向かい電気を点ける。ヨーグルトを食べながら、読みかけの金原ひとみさんのエッセイを開いた。昨日読んだ文章を思い出す。

「確かに、音楽とか小説に救われたことない人をすごく遠く感じることがある」

金原ひとみ「パリの砂漠、東京の蜃気楼」

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そういえば、この金原ひとみさんのエッセイは私を本の世界に引き戻してくれた最初の1冊だった、と火曜日の朝6時の光の中で思い出した。

コロナ禍からの数年、仕事もプライベートも変化が著しく、いつの間にかゆっくりと本を開くことがなくなってしまった。本を読みたいのに読めない。ソファに横になってNetflixかYouTubeしか開けない。そんな時期がしばらく続いた。

最近読んだ本や観た映画を聞かれても、あまりぱっと出てくる答えがなく、「趣味が変わったの?」と友達に聞かれて、「うーん」と誤魔化しつつ、かつて好きだったもの、私が夢中になっていたものが崩れ落ちていることを感じて悲しい気持ちになったりもした。

あんなに貪るように本を読み、映画を観ていたというのに、あの頃のように一向に心が動かなくなっていることに気が付く。

そんな数年が過ぎ去り、久々にようやくまるで深呼吸をした後のように「本を読みたい」という欲がふつふつと湧き上がった。ずっと気になっていたけれど、読んだことのなかった金原ひとみさんの「パリの砂漠、東京の蜃気楼」は、年始に一気に読んだ。それから、それまでの数年が嘘のように頻繁に本屋に行っては本を次々と買って、読み続けた。

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これまでずっと小説や映画に救われ続けてきた人生だと思う。貪るように、兄と取り合いになりながら読んだハリー・ポッターシリーズ、次が待ち切れなかったあさのあつこの本、受験期に気分転換に読み漁った東野圭吾のミステリーシリーズ、大学時代に泣きながら読んだ思い出の小説たち。夢中になって本を読んでいる時間は幸せだったし、映画館で過ごす時間は私をどこか違う世界へ連れて行ってくれる気がした。

そういう意味で、私も金原ひとみさんのように小説に救われたことのない人を遠く感じているのかもしれない。でも一方で、少し、羨ましく思う部分がある。

かつて、私が同僚に言われたように、「小説や映画は現実とある程度距離を取るためのもの」だとするなら、小説や映画に救いを求めなくとも、きっとそこまでして距離を取らなくとも、現実の人や現実の何かに救われてきた人はたくさんいるのだろう。その現実の何かというのはきっと、深夜のファミレスだったり、友人との長電話だったり、ゲームだったりスポーツだったりするのかもしれない。

私は、おそらくある程度離れた距離から現実を見ることで冷静になって救われている気がする。そうして現実と距離を取らずとも、何も考えずに誰かに、そして何かに救いを求めることができること人のことをちょっとだけ羨ましく思う。

それでもやっぱり私は、自分が好きなものを通して誰かと繋がりたいし、共有したいんだよなぁ、とぼんやりと考える。好きな作家の本の好きな台詞、大好きな映画のワンシーン、ここ良いよね!この台詞が良かった…、友人とのそんな会話に私は幾度となく救われてきた。

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「うーん、どうしようねえ、次いつ来てもらおうか」
最近、健診に行くたびに産科の医師は頭を抱えている気がする。入院のタイミングがなかなかはっきりと見えてこないのだ。本当は今日にしたかったんだけど、ちょっと薬のこともあってまだかなぁ、と言われてエッと驚く。前回は、まだ時間がかかりそうとのことだったので、予定日ぎりぎりになるだろうとまったり構えていたのだ。

この1ヶ月ほど、ずっとこの(もう産まれてきても全く問題ないのだけれど)「いつ産まれるか分からない」というまさに一寸先は闇状態だ。先のことを考えてもどうしようもないし、何も分からないので、開き直って友人と思い切りランチしたり、美術館に行ったり、本を読みまくったりしていたけれど、ついにいよいよもうあとは待つのみ、という状態になってしまった。

いつ来るか分からないものをただひたすら待つ、って今までの人生であったっけ、と思い出してみたけれど、他にひとつも思い付かなかった。何も分からない先のことを、そして経験したことがない、しかも痛みが伴う出産ということを考えると不安と恐怖がふつふつと湧き上がってくるので、最低限の知識は入れつつももうここ最近は何も考えずに好きな本を読み漁っている。

かつてのように、貪るように読書をすることはなくなったけれど、やっぱり本を読むと安心するのだ。ただ先が見えない現実の不安と少し距離を置き、ふっと冷静になることができる瞬間。

この1年弱の妊娠期間、まるで自分の身体が自分のものではなくなるような不思議な感覚から始まり、基本的に自分では何もコントロールできない、ただ耐えるしかない悪阻、様々な体調不良、そんな全てを乗り越えることができたのはただただ「子に会いたい」という思いからだった。完全に、完璧な私たちのエゴでしかないけれど、その思いのみでここまで来たことは間違いない。

病院の待合室には妊婦さんがたくさんいた。この人たちがみなこの世にたったひとりの我が子に会いたいという思いひとつで色んなことを乗り越えてきているのだ、ずっと我が子が産まれてくることを待っている人がこんなにいるんだ、そう思ったら、なんだかこの一寸先が分からない状態に少し、光が差してきた気がする。

そして、やっぱり私は小説に救われているのだな、と思い今日も本の頁をめくる。







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