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ハムレット

「久し振りだな」
 右手を申し訳ない程度に挙げて、彼は微笑んだ。会っていなかった空白の時間なんてものは存在しなかったのではないかと疑ってしまうくらいにフランクで、それこそ昨日一緒に居たかと思わせるほど普遍的な彼の姿に僕は彼に倣うように左手を挙げることしかできなかった。右手に持ったゴミ袋が不意に重くなった気がした。
「まだ、ここでバイトしてるのか?」
 彼は近づきながら問いかけた。僕はゴミ収集場所にゴミ袋を捨ててから、カラスや野生動物が襲撃しても被害を最小限で防ぐ気持ちばかりの抵抗を抱きながら安っぽいネットを掛けた。
「もう正社員ですよ」
「立派になったもんだな」
「バイトで生きていくには歳を取り過ぎました」
「相変わらずだな」
 彼はネットで覆われたゴミ収集場所を一瞥してから、タバコに火を点した。一連の動作はなめらかで、それでいて美しくて、思わず見入ってしまう。
「お前も吸うか?」
 そう言ってタバコの箱を僕に向かって放った。滞空時間の長いホームランみたいな放物線を描いたタバコは僕の手元に寸分の狂いなくやってくる。相変わらずのコントールの良さは、高校時代に喉から手が出るほど欲しかった才能だった。
「タバコを止めた、なんてつまらないことを言うなよ」
 仮に世間が推奨しても彼は認めてくれない。たかがタバコの一つで社会に抵抗する。まるで自分の生き方を自分自身で選択していると主張しているかのように。
 僕は一本のタバコを貰い口でくわえながら、ポケットの中をまさぐる。求めていたマッチ棒を取り出して、側薬で擦ろうとする。手が小刻みに震えている。理性では把握できない何かを身体が訴えている。
 普段意識しないことを意識してしまうのは、きっと彼の存在が大きいのだろう。マッチ棒の先端に灯った炎にタバコを近づける。ラッキーストライクの重たくて毒々しい煙が、身体に入り込んでくる。懐かしい味を味わうように、そして言葉にできない感情を代替して、空に向かって煙を吐き出した。
 明け方を待つ路地裏。誰もいない。でも遠くから嫌なことから逃れるように酒を飲んで上機嫌な陽気な声と、甲高い笑い声が聞こえてくる。場末だとしても欲望が渦巻いていることを踏まえると、この場所は歓楽街だと自覚せざるを得なかった。怒号や悲鳴が聞こえてこないあたり、少しばかりは健全になったのだろうか。それとも時代に取り残されてしまっているのだろうか。
「お前がタバコを吸っている姿は、様にならないな」
 彼は笑って僕の肩に手を回す。間近にやってきた横顔を見ないように、僕は視線をずらさない。でも首元から漂ってくるオレンジを原材料にしている香水の匂いが嗅覚を刺激する。筋肉質の細い腕の硬さと重さが肩の触覚から伝わる。身体が触れあってしまうゼロ距離から逃げる術を模索するけれど、このままでもよいのかもしれないと思う僕がいる。三年間の空白を経ても変わらないものは、どうやら変わらないらしい。
「三年間、どこに行っていたんですか?」
 抱いた疑問を投げつける。
「オレにも色々あったんだ。知っているだろ? お前は大丈夫だったか?」
 心配そうに呟く優しくて心地よい声を聞きながら、何も言わずに頷く。くわえタバコも苦しくなって、彼のいない右側の腕を口元に持って行き、人差し指と中指でタバコを掴んだ。視線に入ったタバコは思った以上に燃えていて、かろうじて原型を留めていた灰が、汚い路上に落ちる。コンクリートの上で無残な姿になった灰。まるで僕のようだった。
「一杯、飲みますか?」
 僕は全ての邪念を葬り去るように呟いた。
「そうするか」
 彼は僕の肩に回した腕を外す。吸っていたタバコを路上に落として、靴のかかとで残り火を消した。ジーンズのポケットから携帯灰皿を取り出して、膝を曲げてその場にしゃがみ込み、使いすぎた歯ブラシの毛先みたい葉っぱが散った吸い殻を拾った。彼のタバコもだいぶ短くなっていて、正味二分も経っていないと思っていたやり取りだったけれど、時間の概念がねじ曲がっていたようだ。
「じゃあ、行きましょうか」
 僕は彼を即して歩き始めた。あの頃から逆になった立ち位置、彼の足音が静かな街の中ではやけに大きく聞こえた。

 営業を終えたバーの厨房には、さっきまで人間が何かを埋めようとしていた時間の断片が転がっている。カウンターや棚に並んだ酒瓶はその証拠だった。
「何飲みますか?」
 僕はカウンターの向こう側に立って、カウンターチェアに腰掛けて紫煙をくゆらせる彼の注文を僕はシンクに残したグラスを丁寧に洗いながら待った。まさか店員と客になるなんて。僕は不思議な感覚を抱きながら、水道から流れる水の音を聞いていた。変わらない。ただ、彼がいること以外は。
「ハムレット」
 淡泊に抑揚の無い声だ。ただ、そのカクテルをチョイスするには、意味を含みすぎている。でも口にも表情にも出さない。バーテンダーは黒子。必要を求める場面以外では決して姿を現してはいけない。商売道具であるシェイカーとバースプーン、メジャーカップを用意し、準備を始める。
「悲劇ですか?」
 僕は手を動かしながら、彼に尋ねた。
「そう思うのはお前の自由だ。でも悲劇になるには、相応の幸福がないければならない。オレにはその幸福というものを持ち合わせていないから悲劇でもない。誰かが悲劇と呼ぶのであれば、オレはこう答える。ただの日常だよってな」
 空白の三年で彼は変わってしまったのだろうか。正確には、彼と過ごした時間の中から抽出したもの全てが誤っていたのだろうか。どちらにしろ、ひどくサムい。
「本当にいいんですか?」
「何が?」
「ハムレットで」
「悲劇を飲み干すことくらい、オレには訳ない」
 ひどく重たい空気にめまいを起こしそうだ。仕方が無いと気持ちを飲み込んで、閉まってあったミキシンググラスやストレーナーを取り出す。頭の中に詰め込んだレシピから必要な材料を参照し、プログラミングされたロボットのように身体を動かす。グラスに入れたジャガイモを蒸留したアクアビットとサクランボを主原料にしたチェリー・ヒーリングを氷と共にステアする。
「お前、上手くなったな」
 僕は何も言わず、バースプーンで二つの液体を撹拌し続ける。グラスと氷がぶつかる儚げな音が静かな店内に響いた。
「今まで何してたんですか?」
 バーテンダーの禁忌を破って僕は再び問いつつ、カクテルグラスに注いだトマトジュースのような赤い液体を彼の前に差し出した。彼は何も言わずにカクテルグラスを見つめ、タバコを灰皿に押しつけて火を消した。まっすぐだったタバコはひどく窮屈に曲がった吸い殻へと姿を変えて、僅かな煙が灰皿の中に漂った。その時間は短く、まるで彼と過ごした時間のように見えてしまった。
 しばらくして彼はゆっくりとカクテルグラスを口元へと運んだ。その時の僕の視線は彼がカクテルグラスを握る指に行く。指は長く、筋肉質に引き締まった腕とはギャップのある綺麗さが、そこにはあった。でも魅力的な指から背けたくなる気持ちが心の片隅に鎮座して、次第に広がっていく。まるで透明な水に墨汁でも垂らしたかのような感覚だった。タバコを吸っているときから気になっていた小指。綺麗だからこそハッキリと目に入る手術痕。
「甘いな」
「ハムレットは甘いお酒ですから」
「なんで悲劇なのに甘いんだろうな?」
「それは」
 僕は言葉に詰まる。彼がさっき述べたサムい文言を思い出してしまったからだ。
「田舎から出てきたジャガイモのお前と過ごして、チェリーを奪っちまったあの時間は甘かった。オレのどうしょうもない人生にかすかに差し込んだ光にすら思えたんだ。ただな、この世界にお前を呼んだことは本当は間違いだったのかもと思うことがあった。何にも知らないお前は無垢なガキそのもので、知ってか知らずかオレのエゴを許してくれたからこそ、巻き込むわけにはいかなかった」
「何も知らせず消えるのは残された人のことを考えていないです。いくら綺麗に化粧して繕ってもそれをエゴと呼ぶのでしょうか?」
「オレを許してないのか?」
「勿論です」
「どんな理由があってもか?」
「その先に待つのは希望ですか? それとも絶望ですか?」
「パンドラの箱か、オレの消えた理由は」
「そんな大層なものではないのでしょ?」
「さぁな。お前は今、幸せか?」
「幸せを計る物差しをどこかに落としてしまったので、分かりかねます」
「お前は変わってないな。無駄に背伸びして、尖って。誰も信用していない冷たい目には、今の状況はどう見える?」
「信用してた人が消えたんですよ。三年前、突然。それ以前にも僕は誰かを信用するとその人を失う体験を繰り返してきました。だからこそ誰かを信用したり、期待したりすることは止めていたんです。そうすることで夏の火遊びみたいに記憶から排除できますし、どうしょうもないドラマでも観た気分になれますから。ただ、今回の件については人生の根底を揺るがすようなことも起きました。僕は全てを失ったはずなのに、手の中に幾つかのものが残っていました。因果なものでそれが今を活きる術になって、誰かを喜ばせ、誰かを悲しませている要因になっている。どうやら信用している誰かを失うことは、僕を人間として形成する上で重要な役割を果たしているようです。蒸発した両親からは身体と考える術を。学生時代の恋人からは猜疑心を。そして三年前に何も言わずに消えた恩人から生きる術を。心の底から感謝することはありませんけど、でも生きてこれているのは、四人のおかげであることは間違いありません。消えたことについては死ぬまで恨みますけど」
 僕は厨房に置いたタバコを手に取り、マッチで火を点す。その姿を彼にはどう映ったのだろうか。彼は黙り込んだままカクテルを飲み進めていく。沈黙が二人を包んでいく。
 タバコが半分以上灰になった頃、彼は静かに立ち上がった。そしてカウンターの中に入ってきた。バーテンダーの神聖な場所を土足で入ってくる不躾さは相変わらずだ。でも仕方が無いことだ。出口はここを通らないといけない。
 人が二人通るには狭いスペースで僕らは再び距離を失う。彼は僕の肩に手を置いた。
「美味かったぞ。オレが飲んだ酒の中で一番だ」
 何を言っているんだと怪訝な顔で彼を見た。彼の顔は、剃り残した髭が見えるくらい、それこそ目と鼻の先にあった。
「ありがとう」
 彼は優しく呟く。僕が反論しようとした時、口を塞がれた。消える前日と同じように。甘い味がしたのはカクテルのせいか、それとも過去の甘くて優しい思い出がさせたのか、僕には分からなかった。

文責 朝比奈 ケイスケ

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