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面影

 最近、ある女性が気になっている。
 これが恋愛感情なのか、僕には全くもって分からなかった。
 書類入れを挟んで向かいに座る彼女は、今年度から働くことになった新人だ。詳しいことは聞いていないけれど、当たり障りのない一般論を踏まえれば、一回りは年下だろう。言葉遣いもどこか社会人に染まりきっていない初々しさが残っていた。そんな彼女を見ていると懐かしい気持ちを抱く。かつての自分の姿を見ているような感覚があったからだろうか。
 エクセルファイルを操作しながら、データを作成しては確認する。パソコン画面で確認すると、見落としが少なからずあることを教訓にしている。ある程度出来上がったものを紙媒体に起こして、赤ペンでチェックを入れる。さながら小説や雑誌に乗せる文章の校閲でもしているような気分だ。赤ペンで修正を加えていると、インクが切れた。使い続けた相棒との関係は、かれこれ五年以上になる。インク交換も慣れたもので、机の引き出しには無数のストックが常に用意している。仕事をするようになってから身につけた習慣は、確実に社会人に染まっていることを示しているようだ。
 出来上がった書類を課長に提出する為に席を立った。彼女は、電話対応のマニュアルを黙読しながら、時より手に持った赤ペンで何かを書いている。真面目な姿勢は評価できるけれど、この調子だと、いつかパンクするだろうな、なんて思っていると目が合った。僕は可能な限りの笑顔で応対して課長の席を目指した。
「課長、稟議が書き上がりましたので、ご確認ください」
 何度口にしたか分からない常套句を告げると、課長は黙って書類を受け取った。風邪を引いて病院に行き、待ち時間を潰すように興味の無い雑誌を読み進めるような態度で読み進めていく。そんな姿を眺めながら、ぼんやりと社内を見渡した。
 出会いと別れが今年もやってきて、雰囲気が変わった社内。でも本質的には変わっていないことの方が多くて、人の入れ替えと席替えがあったくらいだ。幸い、僕は指定席から離れることは無く、代わり映えのない風景を見つめながら、仕事に勤しむことで時間が過ぎ去っていく。彼女が目の前にやってきたこと以外は変化の乏しい新年度だ。
「うし、相変わらずよく出来ているな。これは上に上げておく」
 課長は抑揚のない口調で成果を告げて、捺印をする。文明開化が進んで手紙からメールになったのにも関わらず判子文化は普遍的で、今後も変わりそうにもないかった。
「それで、別件の話がある」
「なんでしょうか?」
「笹井さん、ちょっとこちらに来てもらえるかな?」
 課長はおもむろに彼女の名前を口にして、右手でこちらに来るようにと言わんばかりの合図を送った。彼女は呼びかけと合図に気づき、急いで課長の席の前、強いて言えば僕の横にやってきた。
「なんでしょうか?」
 自信の無さが透けて見える小さな声。どうやら緊張しているようだ。その姿を横で見ていると、色々と気付くことがあった。身長は僕の胸当たりで、目元のメイクが印象的だ。去年はどこかの国の流行に乗った女性社員の口紅の濃さに目が行って、そうした分野に明るくない僕はひどく気になったことを思い出した。メイクやファッションなどの美の流行り廃りは早くて、女性の多くはトレンドに敏感なのだろう。横に居る彼女だって新しい環境にも関わらず、確実に僕よりも早起きしているだろうし、手入れも出費も多いはずだ。髭剃りの替え刃とクリームくらいしか買わないからこそ、その目に見えない努力には素直に感服する。
「これから石橋と一緒に倉庫の整理に行って欲しい」
「分かりました」
 彼女は即決で返事をする。右も左も分からない状況で、指示を受ければ素直に受け入れるのは、新人としては当然の判断だった。ただ、予想外の展開に面食らった僕は思わず「これから行くんですか?」と話の腰を折るような言葉を口にしてしまった。
「石橋もちょうど稟議書き終わって、一息つくだろう? データで貰っている進捗日報では、お前の抱えている仕事の緊急性は現時点では低いだろう。午前中抜けても問題ないだろう?」
 一昨年、社内で導入された進捗日報のおかげで仕事を抱え込むこと、残業することも劇的に減った。けれど、時間の余白を把握されてしまうことで今回みたいな唐突な依頼への拒否も奪われた。確かに抱えている案件の緊急性は低くて、正直に吐露すればサボる気でいた。その魂胆を見抜かれていると判断すると、余計なことを口にするのは愚策以外の何物でも無かった。
「分かりました。倉庫の整理って、どの辺ですか?」
「今年度から新しい案件が増えて、それに伴って資料も増えただろう? その資料の整理してもらいたいのと、後は備品の確認と発注方法を笹井に伝えて欲しい。本来なら香坂の仕事なんだが、今日は休みだからよろしく頼むわ」
 そういえば新人指導を担当している香坂は、私用で休むと連絡が届いていたっけな。どうやら香坂は今日僕が指導することを課長から知らされていたようだ。明日会ったら、問い詰めなければな。
「よろしくお願いします」
 彼女はさっきの自信の無い声よりもハッキリした声を出した。
「それじゃ行きますか。課長、鍵ください」
 課長から鍵を貰って、2階にある倉庫で書類の整理を二人で開始していた。ただ二人で倉庫を整理するには、あまりに静かすぎた。仕方が無く、我ながら面白みが欠如しているなと思う質問を投げかける。
「笹井さん、仕事場の雰囲気には慣れた?」
 彼女は書類棚に収まった書類をテーブルに移している最中だった。
そんな彼女の動きはスマートでは無く、なんだか行動に無駄が多いように目に映る。注意するほどではないから敢えて黙認しながら、彼女の胸元の社員証を何気なく見る。笹井佳世子。顔写真は、僕と同じように履歴書からそのまま移されているようだ。化粧気を感じさせない素顔。目の前に居る彼女とは少し印象が異なった。
「先週よりは慣れましたけれど、どうなんでしょうか?」
 質問に対して質問で答える。このやり取りには既視感があって、ようやく彼女が気になる理由に合点が行った。
 学生時代、僕が片思いをし続けた女性によく似ていたのだ。大学のキャンパスで話をするとき、よく質問返しをされたし、それにどこか行動に無駄があったことも同時に思い出した。
 彼女と出会った時から無意識で彼女と君が似ていることを認識していた。だからこそ、気になっていたのだ。それにしても十年くらい前の君への想いが残っていることには驚いた。恋と定義すれば、引きずり過ぎだし、あまりにも不毛な感情だ。何よりもう顔はぼんやりとしか覚えていないし、声は思い出せない。予想外の展開のせいで、色々なことが変化しても根元は変わっていないことに自覚的になってしまう。
「石橋さん、どうしました?」
 どうやら頭で浮かんだ懐かしさが表情に出てしまったようだ。顔は口ほどに物を言う。あれは顔じゃなくて、目か。
「ごめん。ちょっと思い出したことがあってね」
「私、何かしましたか?」
 不安そうな彼女の表情は、君の拗ねた顔によく似ていた。
「笹井さんは何もしてないよ、大丈夫」
「本当ですか?」
「うん」
「それじゃ、教えてください」
「笹井さんに伝えても困るだけだよ?」
「大丈夫です」
 まっすぐに僕を見つめる目には、逃げを許さない強さが滲んでいるようだった。
「笹井さんにこんなことを言うと気持ち悪がられるから言いたくないけど、昔片思いしていた人に笹井さんがよく似てるんだよ。ごめんね、いきなり気持ち悪いこと言って」
 適当な方便で逃げることはできた。でも素直に本当のことを吐露したのは、きっと君のせいだ。散々、君に指摘された言葉のせいだ。
「そういうことだったんですね」
 妙に安堵している彼女の表情には含みがあった。これは他にも余罪がある気がした。
「なんだか納得しているというか安堵しているような表情しているけど・・・・・・」
 口ごもってしまったのは、土壇場に弱い僕の欠点だった。その欠点に類する単語が脳内で踊る。押しが弱くて詰めが甘い。自覚しているからこそ注意してきたけれど、意識していない場面だとすぐに顔を出す。完全に押さえ込むには、まだまだ時間が掛かりそうだった。
「よく目が合うなとずっと思っていたんです。石橋さんは課長や他の社員さんからの信頼も厚い方だなと思っていたので、色々と吸収していこうと見ていたんですよ。だから私の目線に気付いているのかなって、勝手に気にしてたんです。でも石橋さんにも理由があったんですね? 私が仕事が出来ないことに怒っていると不安もあったので安心しました」
 彼女の安堵した表情に不覚にも可愛いと思った自分がいた。懐かしさと単純な可愛いという感想が混ざった感情の置き場所は、今の僕には無かった。ただ、長いこと片思いしていた君の存在は、確かに残っている。いい恋していたんだな。
 窓から差し込む太陽の光に誘われて、僕は窓へと目を向ける。告白したあの日によく似た青空だった。

文責 朝比奈ケイスケ

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