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短編小説集

84
短編小説を挙げています。
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2021年1月の記事一覧

忘れられない

忘れられない

「雫ちゃん、忘れられない恋ってある?」
 送迎帰りの車内で先輩に唐突な質問を投げかけられて、私は返事に困った。何を言っているのだろう、いきなり。本音を隠すように笑みを作って誤魔化そうと試みた。でもうまくいかない。さっきまで、おばあちゃんやおじいちゃんのにぎやかな声が響いていたハイエース内とは思えないほど静かで、先輩の声は行き場所をなくしたように車内に沈殿していき、そしてエンジン音にかき消されていた

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シンデレラ

シンデレラ

「ゴメン、待ったよね」
 駅の騒がしさに紛れて消えていく謝罪の言葉。でも待ち人は、心配そうな表情から安堵感に変わっていく。その表情の変化を見ていると、申し訳なさが普段よりも重くなっていくのを感じる。
「仕事でしょ? 美加がやりたくて頑張っているだから気にすることはないよ。でもね、無理だけはしないでね。辛そうな表情はあんまり見たくないな」
 そう言った彼は静かに歩き出す。クサイ言葉を口にすると恥ずか

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嫉妬

嫉妬

「悪い、待たせたな」
 顔を赤らめた寿也は開口一番、僕に詫びるように手刀を作りながら言う。その姿は、学生代によく見た姿だった。
「気にすることじゃない」
 周囲を見渡せば、着飾った服装をした老若男女で溢れている。クロークには宴を終えて、荷物を待つ列ができている。その誰もがどこか幸せそうな表情をしており、結婚式の会場は幸せという曖昧な尺度を具体的にする建物のように思えた。
「マツと井出は?」
 寿也

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星が遠い

星が遠い

 星が遠い。
 情けないほど陳腐な感想を抱く自分に嫌気が差すけれど、久し振りに見上げた空が遠く感じたのは、まぎれもない事実であり、東京で生活しているのだと自覚的になった。色々なことに溢れ、下を向くことばかり日常が般化していることへの危機感のようなものが胸を染めていく。
 タクシーが横を過ぎていく三車線の幹線道路を横目に歩いていると、マスク姿の人と何度もすれ違う。人工的な光が明るさを確保し、人の発明

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一室

一室

 有線放送から流れる聞き覚えのあるナンバーで、我に返った。机に置いたスマホを手に取り、時刻を確認する。深夜十二時半。サヤカが部屋を出てから十分も経っていなかった。座り心地の良い自分には分不相応なソファーに腰かけながら、ぼんやりと部屋を見渡す。部屋の大部分を占めるキングサイズのベッドのシーツは乱れ、着ていた服は床に散乱している。人間という生き物でなく、一つの生命体として満たされないものを十個も下の女

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