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『Wikipediaメインページ』をブックマークするということ 【それと『伊東里き』】
カップヌードル記事で祖父を思い出した結果、なんだか知識への欲求が湧いてきた。
現代で知識を求めるといえば、手っ取り早いのはウィキペディア(Wikipedia)である。
ものすごい量の情報にアクセスでき、単語のリンクに惹かれて読み進めていくと、集中力が続く限りは永遠に読める。
ところでこのウィキペディアの『メインページ』という存在を知っているだろうか?
![](https://assets.st-note.com/img/1695158077452-QTxLmhb4Ps.png?width=1200)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
ここには「今日は何の日」「選り抜き記事」など、色々と自分が検索して見ないであろう記事が詰め込まれていて非常に良いことに気づいたのだ。
こういう偶然の出会いを求めて人は本屋に行くのだから。
これからはブラウザを開く際には、ウィキペディアをチラ見してからにするのもありかもしれない。
思わぬ情報が自分の人生を変えることもあるかも……!?
![](https://assets.st-note.com/img/1695158304405-MoIB62aDyD.png?width=1200)
・・・
まあこんな思いつきを話すだけで終わりというのもあれなので、メインページにあった記事についておまけで書くとしよう。
取り上げるのは『伊東里き(いとう りき)』。
これは人名なのだが、名前に漢字と平仮名を合わせるのが自分の感覚ではすごく斬新だ。
一体どんなことを成し遂げた人なのだろうか?
※以下、おまけの5000文字をどうぞ。
伊東里きは端的にいうと、日本人の北アメリカ移住に尽力した女性である。
![](https://assets.st-note.com/img/1695159613735-S1YfBTsmGR.png?width=1200)
なにやら最近の日本でも「海外へ出稼ぎに行こう!!」というムーブメントが起きているが、伊東里きが生きた時代(慶応〜昭和初期)の日本は、都市部と比べて農村は発展から取り残され、江戸時代と変わらないような生活だった。
そんな時代に北アメリカ移住に尽力した女性が伊東里きなのだ。
では、一体どうやって田舎に生まれた女性がアメリカを志すようになったのかを見ていこう。
(もちろん全部ウィキペディア情報なので、そこはご留意を)
慶応元年(1865年)に医師の伊東雲鱗の子として現在の三重県志摩市志摩町片田に生まれた伊東里き。
小さい頃から和漢の書物に親しみ、何事にも積極的な娘であった。
1885年(明治18年)頃、医師になるために済生学舎(現日本医科大学)で学んでいた兄の一郎の炊事婦として、妹の操とともに上京する。
東京での生活中、横浜・関内に遊びに行ったときにアメリカ人の落とし物を拾い、そのお礼に夕食をご馳走されたことがアメリカと出会うきっかけとなった、ということが通説とされる。
ただし、里きの子孫に伝わる話では、里きの叔父の知人・野尻政助(大佛次郎の父)が横浜に住んでおり、そこからアメリカに関する知識を得て、将来のことを考えた、となっている。
なるほど。
こりゃもう最初から出来が良い。
医者の子供として生まれ、書物にも興味があり、積極的で、兄も医者として勉強中で、それを上京して間近で見られる環境にあったのだ。
才能+環境が合わさって最強というやつである。
アメリカとの出会いはあれこれ説があるようだが、とにかく東京での生活を通してアメリカへの興味が出たのは間違いない。
これは田舎にいたらなかなか経験できなかったものだろう。
![](https://assets.st-note.com/img/1695163186030-Hw7NY0kKAA.png?width=1200)
(志摩市の中でもなかなかの僻地だ)
こうしてアメリカに興味を持った里きは、片田村の女性に「リキ キトク スグコイ」と電報を打ち、東京に呼び寄せ、兄の世話を任せることにした。
そして里き自身は1887年(明治20年)からメイドとして横浜在住のアメリカ人の家庭で働くようになった。
里きが最初に仕えた家庭はレンガの製造技術者、次に仕えたのは海軍の大尉であった。
なんかさらっとすごいことしてる!!
「危篤!!すぐ来い!!」と嘘の電報を打ち、田舎の知り合いに兄の世話を任せるとかもう、凄まじい行動力というか色々ぶっ飛んでいる。
危篤と聞いて慌ててやってきたら、ピンピンしている本人に「お兄ちゃんの世話お願い!」なんて言われたら、ブチ切れてそのまま殴りかかってきてもおかしくない。
まあ知り合いは許してくれたのか、里き自身は空いた時間で横浜在住のアメリカ人の元でメイドとなる。
自由時間を作り、自分の目的遂行のために動きはじめたわけだ。
あとこの頃に日本人男性と最初の結婚をしているのだが、男は逃げたしどうでもいいのでスルーさせていただく。
1889年(明治22年)、仕えていた海軍大尉の一家がアメリカに帰国することになり、誘われるまま一緒にアメリカへ行くことを決めた。
同年1月26日、サンフランシスコ行きの「シティ・オブ・リオデジャネイロ号」に乗船し、横浜港を出港。この時里きは24歳であった。
アメリカに渡った里きは、アメリカ人男性と結婚、1891年(明治24年)8月11日に長女モヨを出産した。里きと結婚した男性は後に亡くなった。
すごい。本当に渡米出来てしまった。
これはきっと相当素晴らしい働き方だったからこそ「一緒に行くかい?」なんて誘ってくれたのだろう。
1人連れて行くのにも海路では相当なお金がかかりそうだし。
しかし2年で見事に目標達成である。
そしてアメリカに渡ったあとに現地のアメリカ人と結婚して娘が産まれるのだが、相手の男性は亡くなってしまったそうだ。
この5年後、アメリカでなんやかんや稼いできた里きは、再び日本の片田村に戻り、無双状態となる。
渡米から5年が経過した1894年(明治27年)、アメリカで富を築いた里きは、娘のモヨを連れて帰国、片田村に戻った。
垢抜けた顔立ち、身に付いた洋服、会話の端々に英語が混ざる話し方など、片田村を出た時とは見違える女性になった里きに村人は驚き、その評判は村外まで広まった。
帰国の時土産として3本の木を持ち帰ったが、トランクの中で1本は枯れてしまい、残る2本を英虞郡和具村(現在の志摩市志摩町和具)に住む叔父の雲碩と片田村に住む姉に贈った。
片田村に戻った里き。
もはや顔も服装も仕草も別人となっていた里きに人々は衝撃を受けた。
ちなみに後半のお土産の木は「おりきさんの木」として立派に育っている。
里きはアメリカの衣食、乗り物、男女の振る舞いなど多くの話をしたが、中でも「アメリカは労働賃金が高く、まじめに働けば相当な貯蓄ができる」という話に村人は魅了された。
そしてこの話を聞いてアメリカへ行くことを希望した男性3人、女性4人を連れて、1895年(明治28年)に神戸港から再びサンフランシスコへ渡った。
渡航にかかる乗船料は2011年現在の価値に換算して1人あたり約40万円であったが、里きは一緒に渡った7人全員分の船代を負担した。
里きはアメリカでの話を村人に語った。
村人はその話の中でもアメリカの労働賃金の高さや、働けばちゃんと報われることに魅了され、「俺もアメリカに行くぞ!!」という流れになっていく。
なんだか最近よく聞く話である。
そして里きは覚悟を決めた希望者7人のアメリカ渡航費(約280万)を一人で負担してのけるのだった。
(5年の間に本当にしっかり稼いでいたようだ)
1895年(明治28年)にサンフランシスコに上陸した里き一行は、同地の中華街(Chinatown, San Francisco)で店を開き、水槽の中で海女の実演を行った。
アメリカ社会では女性の権利が強く、海女のショーは女性酷使であると非難を浴び、取りやめざるを得なくなった。
その後、横浜時代にアメリカ人が日本画に興味があることを知っていた里きは、急場しのぎとしていとこ・くにゑの描いた日本画を売り始めた。
くにゑの絵画は予想外の高値で売れ、予約も出るほどであった。
そこで里きは催促の手紙と売上の一部をくにゑに送り、くにゑはそれを励みに創作意欲を高めた。
ここでまさかの伊勢志摩要素が登場。
渡米して行ったのは水槽の中での海女の実演!!
しかし「こんなもの女性酷使だ!!」と指摘され辞めさせられる。
最近のレースクイーン事情などが想起されるが、昔からこんな感じだったようだ。
(志摩市はご当地キャラクターでも色々あったので、なんだか色々考えてしまう)
しかしこの難局も、いとこの描いた日本画のおかげで思った以上に稼げるという展開によってどうにか乗り越えるのだった。
それから7人は男性陣と女性陣に分かれ、男性陣はサンフランシスコで、女性陣はサンタバーバラに移ってそれぞれ白人家庭で働き始めた。
サンタバーバラへ移ったのは、当時サンタバーバラ郡で農業を営む日本人が多かったからである。
各人は労働で得られた収入をそれぞれ片田村に送金し始め、平均して1人年間300円に上った。
この金額は、当時玄米が1俵3円であったことから、「20歳前後の若者がこれほど稼げるとは、アメリカには金のなる木でもあるのだろうか」と村人を大いに驚かせることになった。
その後アメリカの7人は白人家庭で働き始める。
そして各々が片田村へ送金をするのだが、年収300円という状況を知って村人たちは驚愕する!!
……まあ現代に生きる自分たちは300円と言われても当時の感覚がわからないのでどうしようもない。
とはいえ玄米一俵3円ということなので、
・一俵=約60kg
・玄米1kg=400〜600円
という数字をあてはめると、現代の玄米一俵は2万4千円〜3万6千円。
それが当時は3円で、年収は300円だから……
現代でいえば、年収240万〜360万円?
なんだか今の20代の平均年収みたいな数字が出てきてしまったのであんまり驚愕できないな。
……いや、当時の農村・漁村は想像以上に過酷だったということはわかっているじゃないか。
1900年辺りといえば、田舎は電気や水道も整備されていない可能性が高い。
そんな生活レベルを考えれば、やはりこの年収は異次元に感じたのだろう。
……余談だが、1895年は夏目漱石(28歳)がのちに「坊っちゃん」でこきおろす松山中学の嘱託教員になったのだが、その月給は80円である。(校長は60円だったらしい)
80円を先程の玄米換算にすると現代の64万〜94万。(月収!!)
……20代の教員でこれはエグい。
これをきっかけに片田村では、里きを頼ってアメリカへ移住する者が急増し、片田村は「アメリカ村」(三重のアメリカ村、志摩のアメリカ村とも)と呼ばれるようになった。
この動きは国策によって移住した北勢(三重県北部)の移民とは異なる潮流であり、移民斡旋業者にも頼らない、他の都道府県には見られない特異な現象であった。
片田村からの移民が片田郵便局に送金した額は、明治時代末期から大正時代初期にかけて、当時の片田村の予算の3倍に達したという。
また片田村出身のアメリカ移住者(日系二世を含む)は、1942年(昭和17年)の調査では232人で、片田村(当時の人口は約4,000人)の20人に1人が渡米している計算になる。
そして片田村は「こんなに稼げるなら俺もアメリカ行くわ!!」ということで里きを頼ってどんどん移住者が出ることになる。
地元出身者(里き)が斡旋してくれて、実際に凄い額が送金されているのを目の当たりにした村人としては当然の反応だろう。
片田村(人口4000人)は、1942年までに累計232人のアメリカ移住者を生み出し、20人に1人はアメリカ行ってるという村になったのだった。
人々はそんな片田村を「アメリカ村」と呼ぶようになる。
(志摩スペイン村もびっくりである)
そんなわけで片田村の人たちをはじめとして、多くの日本人がアメリカへ渡って盛大に稼いだのだが……そんな日々も永遠ではなかった。
日本人排斥運動や入国禁止令、排日土地法、第二次世界大戦での収容所……
結局日本人は外国人移民であり、厳しい目線にさらされたのだ。
伊東里きはそんな苦難の中でもアメリカでの生活を続け、1950年にサンタバーバラで亡くなった。
……うーむ。
結局は移民は移民。他国では最優先の存在ではないのだ。
やっぱり自分たちの国でしっかり稼げたら、それが一番だな……。
しかし当時の日本は明らかに出稼ぎが正解だったのもまた事実。
そして今の日本も、海外に出稼ぎに行けば若くしてひと財産築ける(らしい)というのもよく聞く話だ。
現代日本人の中にも、伊東理きが生きた時代の村人と似たような境遇に置かれている人はいることだろう。
田舎では正社員でも月収15万を下回る場合があるしな……。
当時は今以上に英語なんて教育されてなかっただろうし、そんな中でも覚悟して渡米をした村人がいたことには勇気を貰える気がする。
状況の打開のために行動すべき時はあるのだ。
そんなわけで、三重の田舎から出現した移住請負人のお話。
やはり人を変えるのは知識と行動と、それによる出会いなのかもしれない。
普通に生きていたら知ることのなかったであろう『伊東理き』を教えてくれたウィキペディアと、編集者の方に感謝を。
とても良い出会いだった。
今後も出会っていこう。
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