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読み書きの「モード」とファンタジー短歌


はじめに

今回の記事のメインテーマは、穂村弘が『短歌の友人』(2011)で触れた「モード」の考え方です。

本記事では、まず「モード」の定義と利用方法から検討を始めます。続いて、別の記事で触れた「生々しさ」の概念と「モード」がどのように繋がるのか検証します。最後に筆者が展開しようとしているファンタジー短歌で「モード」をどのように使っていくのか簡単に述べます。

読み書きのモード

穂村弘「モードの多様化について」

穂村は「モードの多様化について」の論で、短歌のモードについて触れています。

本稿では、歌のテーマや内容以前の、というかその土台のような位置にあって、我々の言葉(詠うこと、読むこと)を支配しているような、短歌のモードについて考えてみたい。

穂村弘『短歌の友人』p.120

ぼやかした言い方がされていますが、言葉を読み書きするベースとなる、前提の部分を取り上げようとしていると理解できます。

穂村は論の中でモードの例としていくつか歌を挙げており、アニメモードの歌として次の歌を挙げています。

この星の丸みで背中を伸ばすのよ 気持ちまで気持ちまみれの熊も

創作

こちらは穂村が参加したある歌会で提出された歌です。特に詞書があるわけでもないのに、歌会参加者が作中の熊をアニメーション的な熊として扱ったと言います。理由は「星の丸みで背中を伸ばす」行為と、「気持ちまみれの熊」という擬人化された表現が現実世界以外のモードに誘導したからだと考えられます。

短歌は現実を描写するものと思われがちですが、この歌のようにバリエーションがあるわけですね。

モードの定義

論を進める前に、まずはモードの定義を検討します。モードとは、どのような角度から作品を読み書きするかを決める方針だといえます。作品を表現する前の段階で利用する「フィルター」や「レンズ」に注目をしています。読者の視点を考慮するなら読者の解釈をどのように形成・誘導するか決める方針と言えるでしょう。穂村も「支配しているような」という表現をしていますが、モードを意識していないと似たモードで詠み続けることになります。

モードの影響

短歌において、モードによって影響を受ける要素を以下のように整理してみます。

■形式
フィクション/ノンフィクション
:作品が現実に基づくか、虚構か。
ジャンル:ロマンス、ホラー、ファンタジーなど。
言語:使用される言語。
韻律:短歌内の音のリズム。
視点:作品の中で視点(第一人称、第三人称など)。
描写のスタイル:アニメ的、絵画的、映画的、ドラマ的、コメディー的、メルヘン的など。
レトリック:比喩、象徴など。

■意味内容
世界観:時代、地理、社会背景などの環境についての設定。
ルール: 作品内での物理的または社会的規則。
人物像:主体や語り手が描写される場合、その人物の性質。
モチーフ:描写される物やできごと。

読者は形式や意味内容から短歌を読み、作品のモードを読み取ります。作者が意図していたモードを、読者が読み取れないこともありますが、結局のところ読みは自由なのでモードが読み取れなくても問題はありません。

モードの利用

モードの考え方を利用して作品を読んでみましょう。単一のモードで現実世界を詠むような方法もありますが、1首の中でモードを混ぜる方法もあります。

そのときに付き合ってた子が今のJR奈良駅なんですけどね

伊舎堂 仁『トントングラム』

この歌では、定型的な会話文をずらす手法が使われています。日常会話のルールでは「付き合っている子」は人であると予想されますが、突然人ですらない「JR奈良駅」が現れ、読者は梯子をはずされた感覚を覚えます。

モードの視点から見てみると、まず会話文では現実世界のモードが使われています。しかし、パートナーが駅という事態によって現実世界を描写するモードからはずれてしまいます。その結果、世界とは異なる奇妙な世界観が現れます。モードをずらすことで世界観を異化し、読者に驚きを与えます。

モードの破壊

モードをずらす活用をさらに徹底するとモードを破壊することもできます。

片手で星と握手することだ、片足がすっかりコカコーラの瓶のようになって

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end』

この歌ではモードの適用を丁寧に拒否される感覚が楽しめます。何度読解を試みても心象を結ぶ寸前で止められてしまいます。この歌の作り方をメタ短歌のモードと呼ぶことも可能ですが、モードの定義から離れすぎるので要検討です。少なくとも以下の否定が行われています。

・モードを適用させない→ルールがある世界観を提示しない
・定型を守らない
・空間や物の存在感を掴ませない
・身体の感覚をつかませない
・人物像を結ばせない
・ストーリー性を与えない
・時間感覚を与えない
・比喩で理解可能なイメージを与えない

表面的には日本語として読むことが可能なものの、モードを適用できないため、読者には混乱が手渡されます。モードを拒否する作り方を真似してみてもらうとわかると思いますが、徹底的に拒否しようとすると大変難しいです。普段どれだけモードや意味に依存して歌を詠んでいるか理解できると思います。

各モードにおける「生々しさ」

「なんでもあり」の感覚

穂村は論の最後にモードが多様化することで生じる懸念点を挙げています。

モードの多様性を自然とする感覚に反比例して、現実を唯一無二のものと捉えるような体感は衰退してゆく。そこでは現実も想像も、言葉の次元ではすべてが等価であるという錯覚が生まれ、その結果、モードの乱反射のなかにモチーフが紛れてしまうというようなことが起き易くなる。いわゆる「なんでもあり」の感覚である。

穂村弘『短歌の友人』p.131

結論、この「なんでもあり」の感覚は杞憂だと思います。「なんでもあり」になるのは個別の作品に読者側がモードを合わせることができず、投げやりになっている場合です。

穂村は、作品ごとに別のモードで読むことは「マンガのようなジャンルであればごく普通に見られる」ことで、その理由を「それぞれのマンガが異なるモードの下で描かれていることを理解しているから」と自身でも述べています。短歌でも同様にモードにどんな種類があるのか研究し、共有すればよいと考えます。フィクションのモードについての整理の遅れが一番の問題です。

フィクション作品の「生々しさ」

とはいえ、穂村が述べるように現実世界のモードが単一のモードだったころ、読者が得られた「体感」が衰退する感覚も理解できます。この点で別記事の「生々しさ」の考え方に接続できます。

例えば、ファンタジーのジャンルであれば、その物語の世界観のモードにおいて「生々しい」描写をすることができます。魔法を使える世界観でれば、魔法の出し方、影響範囲、コスト、社会への影響等を考慮した描写が必須であり、作者は厳しい制限を設定します。制限下での描写によって、読者が信用し、作品に没入できるようになります。これは世界観を読者に信用してもらうための工夫の一つです。

フィクション作品においては、作品のモードごとに考慮された「生々しさ」がある描写をして、読者が「ごっこ遊び」的に乗ってくれれば、どのような現象を扱っていようと成功していると言えるのではないでしょうか。もちろん、読者の好みによって乗る/乗らないの選択は可能です。

ファンタジー短歌で何をするのか

筆者がファンタジー短歌で筆者がやろうとしているのは、ファンタジーのモードで短歌作ることです。まずはフレームづくりが必要と考えているため、モードについての整理から行っています。

今後の展望としてはファンタジー小説において世界観を表現する方法の応用と、短歌だからできる表現技術について考察していきます。体験したことのないイメージ等の想像心象を生み出すための方法がメインの研究テーマになると思います。また、1首単体ではファンタジーのモード構築が難しいため、連作による世界観の構築についても検討していきます。

おわりに

モードを発展・深化させていくためにまずはモードを整理するところから始めたいと考えています。皆さんもぜひ自分自身のモードを探してみてください。

参考文献

・伊舎堂 仁『トントングラム』(書肆侃侃房)2014
・瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end』2016
・穂村弘『短歌の友人』(河出書房新社)2011

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