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翠雨の幻想


雨が降っている。

蝉時雨が止んだ頃に降り出した雨は、柔らかく森を包んでゆく。藍色に溶け込んだその匂いを吸い込んで、僕の肺も雨に染まる。
目を閉じる。雨の音が聞こえる。
納涼に浸る。僕も雨になる。

街のアスファルトは雨を弾き、森の土は雨を吸い込んでいる。夏の強い陽射しで枯渇した大地は、乾きを癒そうと、雨をぐんぐん呑み込んでいく。

僕は土の上に立っている。

それは優しい雨だった。枯れた世界への恵みのような、そんな慈悲を孕んだ雨だった。

日が暮れていく。
淑やかに降る雨に君を想う。しっとりとしたその温度は君の柔い手のひらを思わせる。

目を閉じると、君の匂いがした。

微睡むような雨音の奥、その狭間で揺らめく君を見た。
濡れた髪と白い肌。艶の黒髪。唇に生気はない。
その口角を持ち上げて、こっちを見てる。

目が合う。君の瞳は藍に染まっている。その瞳がこの雨の原点だと知る。僕もその色に吸い込まれてゆく。

目を逸らしてしまったら、君は居なくなるだろう。束の間を噛み締めるように、僕と君の頭上で降り頻るこの雨を、そっと愛おしんでいる。

君が何かを言う。
雨の音が聞こえる。

僕が何かを言う。
雨の音が聞こえる。

一瞬の沈黙の後、君はそっと目を伏せる。睫毛に雫が絡む。
頬をつたって、薄い白い唇に滴る。

瞬きひとつの後、じっと僕を見据える。
唇が動く。

「_____……」

僕は反射的に目を逸らす。
誤魔化すように、瞬きひとつ。
慌てて戻した視線。雨音の隙間。君は溶けて、そこに雨が降るだけ。

さわさわと、葉の掠れる音がする。
名残りのように木々だけが揺れている。


君の消えた世界で君の残り香を捜そうとも、見つかることはなく。

きっとこの雨は、このままずっと降り続くだろう。この地に染みた僅かな君の名残さえも、直にこの雨が流してしまう。

遠く西に沈んだ陽はもう二度と昇らなくて、静かな夜の水底で永遠に眠る。
そっと目を閉じれば、跳ねる雨粒が心地いい。委ねれば、徐々に僕の身体も融解していく。

雨の音が聞こえる。

この雨は世界の全てを溶かしてゆく。


雨が降っている。
雨が降っている。



雨が降っている。








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