『地球の音楽』(2022年4月発行)にエッセイを寄せた執筆者が登壇するオンライン講座が、東京外国語大学オープンアカデミーで2022年8月から9月かけて、連日3日×3セット(全9回)、開催されました。
この講座に登壇した執筆者のエッセイの冒頭部分を、講座開催順に公開します。
山口裕之・西岡あかね「ドイツ 「ドイツ音楽」の呪縛?」
加藤雄二「アメリカ合衆国〈ジャズ編〉 「ジャズ」の現在――映像資料と文献を通して」
武田千香「ブラジル “ブラジル音楽”の黎明――ヨーロッパとブラジルの狭間で」
Germany ドイツ
「ドイツ音楽」の呪縛?
山口裕之・西岡あかね
学校の音楽室には、いまでも作曲家たちの肖像画が並んでいるだろうか。そこには、フランスやイタリア、ロシア、そして日本の作曲家ももちろん含まれていたけれど、ドイツ語圏の作曲家がとびぬけて多かった。ドイツ語圏にも様々な民族音楽や伝統音楽があるはずなのに、バッハにモーツァルト、ベートーベン、ワーグナーにブラームスなど、少し怖い顔をした大作曲家たちが書いたクラシック音楽だけが「ドイツ音楽」であるかのようなイメージがある。
ドイツ音楽―この言葉は、クラシック音楽を演奏する人や愛好家にとって、自分の居場所のように安心感を与えるものかもしれない。また、クラシック音楽に特に興味のない人たちにとっては、なんだか重苦しくて難しく、気取っていて堅苦しいのが「ドイツ音楽」だという印象があるかもしれない。いずれにしても、そこには「ドイツ音楽」をめぐる特定のイメージがあるようだ。なぜドイツ音楽はこんなにもクラシックでマジメな、難しいものになってしまったのだろうか。そこには、いくつもの事情、なかには日本特有の「教養主義」にまつわるドイツ文化受容についての事情も絡み合っている。(…)(p.208)
United States of America アメリカ合衆国〈ジャズ編〉
「ジャズ」の現在――映像資料と文献を通して
加藤雄二
国民音楽としての「ジャズ」
現代アメリカを代表するドキュメンタリー監督ケン・バーンズによる『ジャズ』は、アメリカ音楽に関する資料の宝庫であり、誰しも参照すべき優れた学術的成果である。未紹介の映像や資料をふんだんに盛り込んだこのビデオを観れば、数冊のジャズ史を読むよりも多くの知識を手に入れることができる。ぜひご視聴されたい。
ただし、一般向けに単純化された構成に問題がないわけではない。現代のジャズ文化を代表するトランペッター、ウィントン・マーサリスがナレーターを務めるこのシリーズは、合衆国の国民音楽を理念としての民主主義や自由と結びつけ、極めて古典的な歴史化の方法を採用しているからだ。ロックン・ロールが存在しなかった時代、ポピュラー音楽としてのアイデンティティを南部ニュー・オーリンズで獲得したジャズは、クラシック音楽からの逸脱と即興性、土着性により、階級や教養レベルを問わず、人々に希望や欲望を表現する方法を提供した。そして誕生から間もなく世界を席捲するにいたった。しかし、アフリカン・アメリカンの歴史とともに発展したジャズが、皮肉なことに自由とは正反対の不自由さを体現する音楽だったこともまた事実なのである。マーサリスは『ジャズ』で、次のように楽観的に語っている。「ジャズはアメリカ人であることがどのようなことかを説明してくれる。それはジャズがプロセスであるということだ。そして民主主義とはプロセスなのだ」。この極めて伝統的な語りが、ありふれた美辞麗句のたんなる反復でないとするならば、現代のジャズはどのような意味で民主主義や自由を体現すると言えるのだろうか。(…)(p.270)
Brazil ブラジル
“ブラジル音楽”の黎明
――ヨーロッパとブラジルの狭間で
武田千香
ブラジルの文豪マシャード・ジ・アシス(1839-1908)の短編に「有名な男」(1883)というのがある。舞台は1870年代のリオデジャネイロ。主人公のペスターナは、出した曲がわずか20日で町中に流れるほど売れっ子のポルカの作曲家だ。ある晩、彼は裕福な未亡人宅で開かれた夜会に呼ばれ、若い女性に声をかけられた。
――えっ? あのペスターナさんですか?
リオきっての作曲家が目の前にいることに感激し、思わず女性はそう叫んだのだが、ペスターナの反応はつれない。表情を曇らせ、まるで屈辱的な扱いを受けたかのように足早に会場を立ち去ってしまう。帰り道、どの家からも聞こえてくるのは自作のポルカ、憂鬱はますます募る。その後もペスターナはヒット曲を出し続けるが、そのたびに鬱が高じ、苦悩のうちに夭逝する。
ポルカの作曲家として大成功しながら、なぜ彼はそれほどまでに苦悩したのか。憂鬱の原因はなんだったのか。実はペスターナのこの苦悩に、いまや世界が認めるブラジル音楽の生みの苦しみを読み取ることができる。(…)(p.252)
※肩書・名称は本書の刊行当時のものです。