こどもたちを育む、やさしさの競争について
「お金が無いのに、子供をつくってしまうなんて、子供が可哀想だ」
悲痛な叫びがあったのか、単に心の奥底でその選択をしなかったのか。いずれにせよ、わたしたちの生きる日本において、生まれてくる子供の数は減り続けている。
生まれてくる子供を増やす、それは、分断の進んだこの社会において、左右から支持を集めることができる、数少ないテーマである。
実のところ、「子供を育みやすい社会を作ることが必要」「子供をより多く産ませることが必要」という同床異夢であるが、まあ、子供がいない公園で、老人だけがゲートボールにいそしむ景色より、やんちゃな子供達の声がきゃっきゃうるさい方が微笑ましいので、これ以上ここでは踏み込まない。
そのような世論の後押しを汲み取り、検討に検討を重ねる岸田総理は、どうやら平均的な所得以下の層に対し、手厚い大学進学支援を「前向きに検討」しているようだ。
これに対し、良識あると主張するエリート層からの評判は、散々なモノだ。無計画に子供を産んだ人間に、私たちの税金が投入され、しかも自分の子には何の支援も無いのか!と、怒りの❗が並び続けている。
本説に入る前に、定義を明確にしよう
エリート・サラリーマンという集合について
彼らは、それなりに良い大学を出て、そしてそれなりに良い会社に就職した。あるいは転職の先に、そこにいる。そこで、東京であればタワマンがギリギリ買える程度の稼ぎを貰い、そして、その成果は当然、自分たちの努力の賜物であると言う。
口ではそう言う彼らも、サンデル教授に言われなくとも、「実力」がどの程度出自に左右されるのか、彼らは一番よく分かっているのだ。故に子供に多大なる投資を行う。
「ふつうの市民」を自認する、わたしたちにも、子供の教育投資を行わないといった選択肢は存在しない。その選択肢をとらないののは、人間未満のDQNという別の種族であり、そしてまっとうな市民たるあなたには、その義務があるのだ。
そして、所得の許す限りにおいて、子供たちは青色のバッグやら、青色のロゴの学習塾に通い詰め、親と同じ人生をたどるべく運命づけられる。それもまた悪くはないだろう。順当にそれなりの大学に進み、賢明に就活に励めば、親と同じ程度の人生が待っている。もちろん「努力と能力」のおかげである。
エリサラ諸氏が大好きな言葉
「選択と集中」
世の中には途方もないアホウが存在する、そいつらにやる支援などは、砂漠にまく水どころか砂のようなモノであり、何一つ生まない。投じるべき資金は、生産性の高い私たちにである、と叫ぶ。
確かに、仕事においてはそれでよかったかもしれない。しかし、彼らにリソースをより多く振り当てることで、より多くの子供が生まれるだろうか?
たぶん、そんなことはない
なぜならば、高い生産性を誇る、順法精神に満ち満ちた、学校の優等生たるエリサラは、彼らの階級の世襲まで検討して子供を作る。それが故に、世帯所得が倍増したところで、SAPIX課金コストが跳ね上がるだけだ。名門大学の定員も、ホワイトカラーの椅子の数も、お受験コストとは無関係な定数である。
実態として、子供を作るために必要なコスト、という「費用対効果」を分析すれば、彼らがいかに生産性の低いナマケモノであるかは理解できるだろう。「民間なら、当然やっている」コスト分析、喜んでやりますよね?
誰が、生産性が高いのか?
ここで、全ての関係が逆流を始める。確かに、結婚にすら至らない貧困層は、この社会において子をなすケースは少ない。しかしながら、いざ結婚にさえ至れば、子供の数は、所得とさほど関係が無い。お受験コストを見込まず、年収600万で三人も子供を養い、日々の生活を汲々と過ごす一家は、極めて生産性が高いのだ。
「年収3000万円なければ、まともな子育てはできない」
これは、ある港区の住人が放った言葉である。しかしながら、私は補足したい。恐らく彼の年収が5000万円になっても、別にもう一人子供を作るようなことはしないであろう、ということだ。
投資を、もっと生産性の高い人々へ
生産性の低い連中から資源をかき集め、生産性の高い、良き市民に分け与える、それこそが発展の黄金式であり、それは、エリサラ諸氏が是非拝聴するべき、至高の結論であろう。
「私たちは、世帯年収600万円一家よりはるかに働いて社会に貢献している」それは大変結構なことである、是非、子供を3人育てる一家の学資のため、納税で貢献いただきたい。
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