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【小説】「ポチ子奇談」犬を撫でに来る女3/3

8 夕子さん


 梅雨も明けて、暑い日が続いています。
 あれから例の女性は、やって来ません。

 お昼前、ヨシズで囲ったポチ子の小屋の周りに水を撒いていると、塀の向こうから、誰かがひょっこり顔を出しました。
「あっ、駐在さん!」
「いやぁ、若奥さんのおかげで、事件が解決しましてね――あれは、自分がこの町に赴任したばかりだったから六……いや、七年前ですな。石舟山裏の雑木林から、白骨化した女性の遺体が発見されましてね」
「立て看板を見ました。溜め池の畔で」

「長いこと手がかりもなかったのが、若奥さんが届けてくれた指輪のおかげで、東京在住の立原夕子、四五歳だと判明しました。夕子は、あの指輪を就寝中もはめていたというほど大切にしていたそうで、失踪届を出していた家族も、彼女の特徴のひとつとして、『鳥の彫金の指輪を左薬指にはめている』と申し出ていました。あの指輪さえもっと早く見つかっていれば、彼女の身元も、犯人もすぐに解ったでしょうな」

「犯人? 彼女は殺されたのですか?」
「そうです。あの指輪の裏には、水が渦を巻いている文様が彫ってありましたよね。あれは深水流作というアクセサリーデザイナーの刻印です。あの鳥の指輪は、彼の作品です。そして深水は、この町の出身者です」

 夕子さんと深水流作とは、恋人だったそうです。
「夕子は独身の管理職で、かなりの貯金がありました。七歳年下の深水は、仕事がうまくいかず、彼女からたびたび金を借りていました。夕子は深水と結婚できると思っていたようですが、彼にはその気はなくて……。まぁ、金銭絡みの痴情のもつれですな」
「辛い話ですね」
「まったくです」
 さらに駐在さんが言うには――

 恋人を殺めた深水は、勝手知ったる故郷に遺棄するのがよいと、東京から車を飛ばしてやって来ました。溜め池の畔は木々が深く、車が入れないので、林の中を遺体を引きずったそうです。
 友人がいない夕子さんだったので、彼女の恋人が深水と知る人は皆無だったとか。
 しかし、それでも深水は、自作の鳥の指輪が自分と夕子さんを繋げる手がかりになるだろうと、ご遺体を車のトランクに入れる時に外そうと試みたのですが、どうしても外れなかったそうです。
 溜め池まで来て、今度こそ指輪を抜かなければいけないとなりましたが、その時はもう、なぜか夕子さんの冷たい指から指輪は消えていたそうで、慌ててあたりを探したものの、いっこうに見つからず、街灯もない草深い場所なので、とうとう諦めた――ということです。
 埋められたご遺体は、その後、狸か野犬に掘り返されて、釣り人に発見されたものの、今まで身元不明となっていたのです。

「仏さんもご家族の元に戻れて喜んでいるでしょう。ワンちゃんのおかげですよ」
 駐在さんは嬉しそうにポチ子の頭を撫でると、ポケットから何やら取り出しました。

9 お盆がきたので


 庭のタチアオイが満開です。
「ねぇ、ポチ子。おまえは最初から、全部解っていたのでしょう」
 もちろん、犬は何も答えません。私が持ってきた夕食の器を見るなり、口を開いて、ハッハッと息を弾ませ、飛び上がるばかりです。

 私は犬の頭を撫でました。
「ポチ子の頭のお鉢は大きいね。さっ、このお鉢分の晩ご飯だよ。お食べなさいな」
 鶏手羽と、野菜やご飯を煮干しで煮た雑炊です。今夜は駐在さんからいただいた干し肉も添えました。
 ポチ子が器に顔を突っ込むと、パチャクチャと水気のある音が響きだします。

 陽がようやく傾きだし、ポチ子の被毛の一本一本が、滴るような西日で黄金色に輝いています。
 今日も暑い一日でした。
「いろんなことが解ったから、あの人は、きっと、もうここには来ないね」
 明日はお盆です。
 菜園の向こうの母屋では、回り灯篭が音もなく回転しています。
 ポチ子の食事は続きました。

【終】

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