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往復書簡#7『本を読むひと』|女ふたり、読んでいます。



年が明け、とくになにも変わることなく、本を読んでいます。りなさんはいかがお過ごしでしょうか。昨夜、萩原魚雷の『本と怠け者』を読了し、『昔日の客』を読みたくなっては本棚から取り出し、今夜読みはじめ、あまりにもよく、胸がいっぱいになってしまい、すこし時間を置きたくなってきたところ。りなさんが数年前、読み始めにこの本を手にしていたことを今でも覚えていますが、こんな気持ちだったのでしょうか。


それにしても我々は毎年こうして読み納めや読み始めを大事にし、ここぞとばかりに温めていた良き本を読むわけですが、りなさんが問われていたように、どうしてこうも飽きずに読みつづけているのでしょう。


書簡をいただいてから、本を読む理由について考えていました。すると、考えれば考えるほど、どんどん格好をつけてしまうのです。しまいには、ポーズをとったような理由しか浮かばず、さてどうしたものかと。ふと気づくと、歯磨きをするときも、野菜を炒めるときも、片手には本が握られており、こんなにも本が傍らにある生活をしているのに、本を読む理由をいざ考えてみると、なんとも言葉にし難く、困りはてているわけです。


しかしそんなことをぐずぐずと言っていては先に進まないので、一先ずは、りなさんがおっしゃられていたように、いろんな気持ちが一緒くたになって、本の数だけあるその世界に飛び込んでいくこと、それらは読書へ向かうただ唯一の光のようにも思えるということ。

そしてそれと同時にもはや読む理由など存在しないくらい、それは食べる飲むといったような生理現象と同等な行為であるように思えてならないのです。



とどのつまり、おそらく我々はいつまでも本読みをやめることはなく、体になにか、読めなくなるほどの異常をきたすまでは読み続けていくのでしょう。さて、はたしてこれはお返事になっているのでしょうか、お返事とさせてください、いや、また考えます。



さて、わたくしも『本を読むひと』について少々お話をさせていただきますね。どうしようかな、この本が伝えてくれる読書の素晴らしさについてはりなさんがとても素敵に語ってくれていたので、わたしは好き勝手に、最も印象に残っていることを綴ろうと思います。


164頁あたりでしょうか。アニタが学校に通いはじめた頃です。ジプシーの子供たちのなかで、学校に通う彼女だけ、みえる世界が一変し、それに伴い、彼女は身なりを気にしはじめ、それを彼女以外のジプシーの子供たちは嫌悪感の溢れるような言葉で非難します。アニタは学校でも異質な存在として扱われ、そして帰ってきても、知ってしまった世界を、ないものにすることはできず、宙ぶらりんの孤独のなかで戦っていたことでしょう。


人間は環境がかわることによって、おのずと変化していく生き物であり、知ってしまった世界を、知らないものにすることはできず、身も心も、誰かと出会うたびに変わりゆくものなのだなあと。それは、本を読むひと、エステールに出会った、アニタ以外のジプシーの人達にもいえることであり、私は新しいことや人に関わることを拒む傾向にあるのですが、こうして開くことも大事なことなのだと気づかされました。


今年は、開きたいです。
(しかし、おそらく、これは嘘)


さて、長くなってしまいました。そろそろ『昔日の客』へもどりろうかしら。今年も健やかに本が読めるよう、互いにからだを気遣いながら、過ごしましょう。


p.s
以前から話していましたが、ようやく村上春樹に手をつける気になりましたので『風の歌を聴け』『カンガルー日和』を読了したのですが、やたらとビールを飲んでいる人ばかりが出てくるので私もビールをやたらに飲みたくなってしまいます。もしくは珈琲。もしくはウイスキー。あとやたらとサンドウィッチを食されているのをみて思わず食パンを買ってきてしまいました(普段は手作りパン以外食べない)。流れるように読みおわってしまったのですが、村上春樹を読むにあたり、これで良いのかという不安でいっぱいです。ひとまず鼠はセックス描写を書かない文筆家ということだけはきちんと記憶しております。好きか嫌いかは置いておき、読みつづけてみるしかなさそう…それはそうと『カンガルー日和』を読んでいたら、サガンの『ブラームスはお好き』が登場しました。これを機に、サガンを読もうかとも思ったのですが、『昔日の客』を読むにあたり、上林暁を読みたい欲がむくむくと。今年の読書も新年早々、大荒れ模様。


p.sがおそろしく長くなってしまいました。


りなさん、今年もどうぞよろしくお願いいたします。




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