見出し画像

【短編小説】八百青

 八百青の源さんは今年五十になる。母が言うのだから間違いない。母は子供の頃、八百青によく使いにやらされて、二つ上の源さんに会うのが嫌だったそうだ。
 三年前、商店街の近くに大型スーパーができて、まず魚屋が店を閉めた。次には肉屋が。そして酒屋。花屋。最後に洋服屋。あっ、靴屋も。
 実際言って八百青は、真っ先に潰れてもおかしくなかった。なのに、まだ続いている。それは源さんのお母さんのハルさんのお陰だとみんなは言っていた。旦那さんを早くに亡くしたハルさんは、源さんが学校を出るまで女手一つで八百青を切り盛りした。
 それに、ハルさんは商店街の名物女将で、地域のまとめ役だった。夏祭りを除いて今はもうなくなってしまった多くの行事を、ハルさんが仕切ってやっていた。正月のどんど焼きとか夏の盆踊りとか秋の大祭とか、ハルさんに話を通せば、ちゃんと根回ししてくれてスムーズに進んだ。一応仕切りは自治会長とか互選で選ばれた実行委員長とか、町の顔役みたいな爺さんが行うのだが、そうした行事の実際は、頼まれてハルさんがみんな仕切ってやっていた。
 しかもハルさんは男を立てる。決して自分が前に出ようとはしなかった。祭りの挨拶は決まって町長だし、盆踊りは自治会長、どんど焼きは地域の班長の爺さんが行った。係役の采配もうまかった。負担が特定の人にかからないように、新しく町に入った家族も上手に引き入れて、収支決算も完璧だった。みんな、ハルさんのことを大事に思っていた。だから、スーパーで買えば野菜も揃うのに、町の人はわざわざ八百青まで足を運んだ。みんなハルさんが好きだったのだ。
 変化が起きたのは、突然だった。近所に野菜を届けにいたハルさんが国道で転倒して大腿骨を折った。
 ハルさんは入院した。八百青は、必然息子の源さんだけで回すことになった。
 源さんは愛想がない。野菜の搬入や店での陳列など手抜きは一切なく、誠実に仕事はするが、無口だった。必要なこと以外は喋らなかった。そのせいか五十になるまで独り身だった。
 源さんもも少し愛嬌がありゃあのう。
 地域の人は、みなそう思っていた。縁談話がなかったわけではない。何しろハルさんの息子である。ハルさんを大事にしてくれるような花嫁候補を、いろんな者が打診したが、源さんがうんと言わない。では、源さんに心に秘めた思い人がいるのかといえば、どうもそうではないらしい。グズグズとしているうち、二年経ち三年たちして、とうとう源さんは四十路を迎え、それからは見合いの話もピタリとやんだ。
 もう八十を越えたハルさんは退院しても店には出なくなった。八百青の客足も段々に減っていき、今では半分ほどになった。商店街の殆どの店はシャッターを締め、入り口の角地にある八百青だけが、取り残されたように残っていた。
客足がなくても、源さんはきれいに野菜を並べる。そして値札を丁寧に書いた。

 源さんの本性に気付いたのは、八百青の裏向かいに住む清子さんだった。そこで清子さんは息子夫婦と暮らしている。因みに夫婦の娘のカナコと僕は中学時代、同級生だった。
 清子さんもいい歳で、ハルさんほどにはいかないまでも、八十近いしはずである。
清子さんは言うのだ。
「源さんは、ああいう物言いの人じゃったのになぁ」
「なんね」
 茶飲み友達のうちの祖母が訊く。二人は今は閉めてある相良医院の待合室で、茶飲み話をするのが日課だった。勉強に疲れた僕も、待合室で休憩することがある。その日はたまたま僕もそこにいた。
「いやな、わしん家は八百青の裏手にあろう。源さんとこの裏庭がよう見えるんよ」
清子さんが喋る。
「ほうやな」
「でな、この頃、源さんがよう怒鳴る」
「怒鳴る? あの大人しい源さんがか?」
「そうじゃ。ハルさんを怒鳴り上げるんよ」
「あれ。なしてえ?」
無口な源さんが母親のハルさんを怒鳴りつける。俄かに信じられないことである。
「なしてえ? 合点がいかん。源さんちゃあ、大人しかろうて」
当然、祖母も疑問に思うのだ。
「わしの家からは、源さんの裏庭がよう見える」
「ん。聞いた」
「仕入れの後に、源さんが洗濯物を干すじゃろう」
「まあ、ハルさんが動けんからの。源さんがやらにゃあ仕方なかろうて。けんど、えらいのう。それから店の支度かい」
「そうじゃ、女手がないけえの。源さんがするしきゃねえもんな。じゃから、早う嫁もらえばよかったんよ」
「ハルさんは? ハルさんは何しちょるんの」
「ハルさんは縁でそれを見ちょってよ。足がきかんけえ」
「そのハルさんを怒鳴るんか」
「そうよ」
「なしてね」
「見張っとるんじゃねえぞ、と」
清子さんは、声を落として乱暴に言う。源さんの口真似らしい。
「おおこわ。なんで? 見たらいけんの?」
「いけんらしいで」
「なんでいけんの?」
「指図すんな、ちゅうてな」
「指図? ハルさんが指図するんか?」
「まあ、ハルさんも心配なんじゃろ。干しゃええちゅうもんでもなかろう。シワもよう伸ばさんと干すけえの」
「それで言うたら、指図かい」
「指図といね。大きな声で指図すんな、ちゅうてな」
「ハルさんにか」
「そうよ。大きな声で、わかっちょらぁな。指図すんなあ! ちゅうてのう」
「そりゃいけんのう。恐ろしかろう」
「恐ろしい。大きな男が、大きな声で、指図するなあ! ちゅうてな」
「キヨちゃんじゃねえよ。ハルさんがさ」
「そうよ。ハルさんも恐ろしいさ。源さんは体が大きかろう。それがハルさん睨みつけて、怒鳴るんじゃから」
「キヨちゃんが見ちゃっても?」
「ああ、見ちょっても」
「母親じゃねえか」
「そうよ。母親に怒鳴るんよ、あの大人しい源さんが、大声で」

 最初、それを聞いた時、僕もすぐには信じられなかった。だが、祖母はその手の話を清子さんから、毎日仕入れて私にだけ報告した。それが毎日であるだけに、私も本当であろうと、やがて確信するようになった。
「ハルさんが物をしまうと、どこに隠した!」
「飯を作れば、こんなに食えるか!」
「味が濃いいの、病気にさすつもりか!」
「さっき言うたのに、もう忘れたんか!」
「ああもう、いちいちうるさいのう! 黙っちょれ!」
「毎日毎日聞こえてきて、キヨちゃんも嫌になる言うてなあ」
 祖母は、その話を決して母にはしなかった。毎日の買い物で八百青を覗く母に知らせることは避けたかったのだろう。
「それでハルさんはどうなの? 最近、全然見ないけど」
「さあね、どうかね。私も会わんけえねえ」
「あの」ふと嫌な連想をした。「叩かれてないよね、ハルさん」
祖母は目を丸くして唾を飲む。
「いや、知らんが……」
「清子さん、言ってなかった?」
「いや、言わん……」
急に心配になったのか、今から清子さんのところへ行くと言い出した。
「清子さんとこじゃなくて、八百青に行って、ハルさんに会ってくればいいじゃない」
「いや、恐ろしい……」
祖母は思い詰めたような顔になった。
「海斗、一緒に来てくれんか」
「どこ? 八百青?」
「いや、キヨちゃんのとこ」

 日曜日だった。昼過ぎで店は開いている。それなら源さんも店番だろう。怒鳴る様子など見れないかもしれない。
「いや、もうすぐ洗濯物を取り込んでよ。そんとき、怒鳴る」
清子さんは言う。どんだけ観察してんだよ。
 僕と祖母と清子さんは、勝手口から出て、八百青の裏庭が見えるコンクリのたたきに身をかがめていた。八百青の敷地と清子さんの家の敷地の境には、ブロック塀がある。高さは、1mそこそこか。その中に飾り窓のように向こうが透けて見える造りのブロックが、間を置いて嵌め込まれていた。私たち三人は、向こうから見えないように覗き窓から、八百青の裏庭を見ていた。
 庭に洗濯物が干され風になびいている。縁が見え、ぺたんとハルさんが座っている。
「もうすぐ取り込む」
清子さんが言って間もなく、空の洗濯カゴを持った源さんが現れた。
 源さんは要領よく洗濯物を竿から外し、カゴに入れていく。その時、ハルさんが何か言った。が、よくは聞こえない。すぐに源さんが反応する。
「黙ってろ! いちいちうるせえよ。指図をすんな!」
思っていた以上に野太い大声で、喧嘩腰に聞こえた。源さんのこんな乱暴な言葉を初めて聞いた。
 ブロック塀から顔を離し、婆さん二人を見る。祖母もキヨさんも真剣顔で私を見ていた。うなずいて、また透かし窓から裏庭を見る。洗濯カゴを提げた源さんがハルさんに近づいていく。洗濯カゴをハルさんの横に置き、源さんが手を上げた。
「わっ!」
思わず三人同時に声がでた。そして三人とも立ち上がり壁の上に顔を並べた。
 頭にしたねじり鉢巻を直しながら、源さんが不思議そうにこちらを見ていた。

「いや、お恥ずかしい。ご心配かけました」
僕と祖母と清子さんは、八百青の居間に並んでお茶を勧められた。正面には源さんとハルさんが座っている。
「婆さんが足折って、入院してる間に、ちょっとボケちゃって」
源さんが続ける。
「店には出せないんで、奥にいてもらって」
訥々と喋る。嘘はないようだ。
「年取って歩けなくなると、ボケるとか言うけど、ありゃほんとですね。お気をつけてください」
婆さん二人が神妙に頷く。
「で、時々、私を死んだ父ちゃんと見紛うみたいで。初め、私もどうしていいやらわからなかったんですが、あんまり父ちゃんの名前呼ぶんで、いっぺん真似してみたんです」
「お父さんの」
「はい。まあ、昭和の初めの生まれの人なんで、まだ男尊女卑というか、記憶の中の父親はやたら偉そうで、で、ちょっと真似て怒鳴ってみたら」
「ハルさんが……」
「ええ、母が嬉しそうにして」
源さんは頭を掻いた。
「そうだったんですか」
「いや、ご心配かけました。でも、父も、あの頃、別に母を嫌いで言ってたわけじゃないんです。母とは仲は良かったんですよ。口は悪いけど本気じゃなくて。怒鳴っても、目はいつも笑ってました。母もそれはわかってて、ハイハイって聞き流して。本当に、仲のいい夫婦でした。で、真似てみたら、母も嬉しそうで。いや、側から見たら、そりゃ心配ですよね。申し訳ありませんでした」
 昔から夫婦喧嘩は犬も食わないというではないか。夫婦には夫婦にしかわからない関係性がある。それを赤の他人がどうこう言う権利はない。そうか。源さんとハルさんは、二人で"ごっこ遊び"をしていたのだ。それならそれでいいではないか。いや、余計なお世話だった。ほんとに。でも、余計なお世話とわかって良かった。
「こちらこそ、事情も分からず失礼いたしました」
婆さん二人と頭をさげて、退散することにする。二人も事情がわかって安心顔だ。
 立ちあがろうとすると、源さんが、ちょっとお待ちください、と制して何やら持ってきた。
「今年、相良さんのところ、地区の班長さんでしょう」
そうだ。班長は回り持ちでなる。なったはいいが、行事をどう回せばいいのか、父親は頭を悩ませていた。前の班長さんに訊けばいいのに、頭が高くて父親にはそれができない。
「これ、ちょっと古いですが、参考になれば。婆さんがやってた頃の行事の実施要項と予算表です。夏祭りのことも出てます。まだ地域で草むしりとかドブさらいとか、あるでしょう。その要項もあります。お父さまにお渡しください。分からなければ、いつでも連絡ください」
手渡されたのは分厚いファイルだった。
「じゃ、ハルさんがやってたことって」
「もう、あの頃はなんでもかんでも引き受けるんで、困っちまいました」
源さんは盛んに恐縮する。スーパー婆さんの魔法が解けて、ハルさんは普通の小さなお婆さんになった。
「ありがたくお預かりします。父には改めてお礼させます」
「そんなそんな。もしお役に立つならと言うことで」
僕たちは立ち上がった。
「いや、なんか騒がせちまって」
祖母がハルさんと源さんに詫びる。靴を履きながら、今度は清子さんが何気なく失礼なことを源さんに言った。
「もうスーパーができて商売あがったりでしょう。畳んで、勤め人になろうとは思わんな。相良の父ちゃん、顔広いけえ、きいてみられたらどうかの」
清子さんにすれば、お詫びのつもりかもしれないが、聞いてヒヤリとする。辞めるにしても辞めないにしても、それは源さんが決めることだ。他人がとやかく言うことではない。
「いや、まあ、その時はご相談に上がります」
源さんも困ったような受け答えだ。
 その時、終始ずうっと黙っていたハルさんが口を開いた。
「悪いけんど、まだ八百青は畳まんよ」
そりゃそうだ。清子さんも気がついて、罰の悪そうな顔になる。そしてハルさんは続けた。
「結子さんが、毎日くるけえ、源はやめられんの。結子さんのために続けるの。のう」
結子さん? あれれ。母の名前だ。えっ? 見ると源さんの顔がどんどん赤くなっていく。
「母ちゃん、何言うとるの。すいません。もうボケとるもんで」
あたふたする二人を残して、急いで玄関をでた。
 僕はそこで婆さん二人に、さっきハルさんが口走ったことを厳重に口止めした。二人の婆さんは必ず棺桶まで持って行く、と神妙に請け合った。

            了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?