高校における従来型の受験に対応した知識・理解について~教えることが多すぎる

【某教研にて】

先週末、教育研究集会にオンライン参加させていただきました。小中高大が一堂に会して学ぶことのできる、数少ない貴重な研究会です。

私も国語の分科会で「互いに母語で世界とつながる国語の学びの可能性」について、お話しさせていただきました。

その中で、事務局の先生のお導きで大学の研究部会に参加し、高等学校とはまた違う、学問と研究に向きあう、最高学府のあり方についての深いお話を伺うと同時に、高大接続、特に入試について抱えている悩みについて、発言させていただきました。

その中で私が強く感じたことは、次のような点です。(ただし、これには私の受け取りが大きいところがあります。十分な議論の時間があったわけではなく、高校側からの参加は私だけで、参加者各位の個人的な見解を交流する場であった故です。)

①大学側では高等学校において、従来の受験学力を身に着けてくることを期待されていること(大学による)

②必ずしも主体的な学びの成果を期待されているわけではないということ

(新しい入試の制度は研究されていらっしゃるが、どのような学びを高等学校で行ってくるのが理想かということについてはあまり問題視されていない?)

③しかし、高大接続の課題を解決する新たな入試改革について前向きに考えていて下さる方もいらっしゃること(偏差値で大学を選ぶため、本来学ぶ気もなかった学部に所属する学生もいるというお話し。たまたま、そこで力を発揮することもあるが、本来の希望と違うという意味で果たしてそれでよいのか、など)

学習指導要領にあるからといって現場を預かる教員が無批判にやるのではいけないという視点からのご指摘も貴重なものでした。(私学に勤めていた身から、その姿勢はそこそこあるように自負しております。主体的な学びと共有活動を充実させることで広範な知識に触れることができること、個別最適化した学びを認めることでより各自にあった学びを深めることができる学習環境が実現することに共感し、実践を工夫しております。)

お話からは、どんな学びを行ってきたかというよりは、いわゆる常識的な知識をどれだけ持っているかが重視されている方もいらっしゃるのかなと感じました。そして、それが足りていないとお感じになっていらっしゃるのかなと思いました。それは、学術的なことも本や著名人についてといった身近な話題に関しても。

しかし、学校で一律に教えるやり方ではこれ以上は厳しいかなと思います。長く続いたシステムの中で、この方式についてはかなり洗練されて、対策もきっちりできていると思います。

講義による既存知識の一斉伝達とそれを試す広範な範囲から問題が作られ出題者の意図に沿うような解答を忖度し導き出す技術の訓練。

そして、既知の領域も、人類全体における範囲が増えるにともない、それをすべて教えたいという欲求はとどまるところを知らず、12年間でも終わらない量になってきています。

また、同調圧力、経済的事情への忖度など様々な理由から履修主義が浸透し、留年してでも知識技能を修得するべしという風潮は、ほぼみられません。

これらの現状から、今後、受験が必要ないところの学びと受験があるところの学びに大きな格差が生まれるのはこのままでは必然です。前者は興味や適性のないところを深掘りされることにより学習が苦痛感じることは続き、学問的な高まりよりも点数を重視し、入試の後暫く経ったらほとんどのことを忘れてしまうでしょう。後者の学校では最悪、何が学びなのかわからなくなってしまうかもしれません。

学習者においても、受験が必要なところでは、知識の根本的理解より、受験で問われることへの反射的解答速度の方が価値が高くなっています。これは仕方がないと思います。話を聞くこと、問題にこたえることについて特化したアウトプットを訓練するのが進学にはベストな授業になっています。

主体的な学びでは、受験技術を修得する仕掛けを構築するのは厳しいと思います。というか、受験においては、教わっている人に勝てない。広範な試験範囲と自分だけでは気づき得ない細かい要素がたくさんあるからです。教師や塾講師による過去問題分析やテクニックの伝達などのプレゼンが最も有効なのは間違いありません。

私は学びたいことを学びたいように学んだ先に、専門研究機関としての大学がある。そこは最高学府であると同時に地域に密着した学びの場であるというような学びと社会との関係性ができないかなと夢想しております。

取り急ぎ、私の手の及ばないところではありますが、まずは、入試について、ちょっとだけ、常識の範囲を狭めてほしいなと思いました。思い切って聞かない分野を作ってほしい。

国語で言うならば、入試に出さなくても、源氏物語や徒然草は教えていきましょう。古典文法も全員には教えませんが、選択科目古典探究を各校において、年間10名もいないかもしれませんが、興味を持ってくれた生徒に教えていきましょう。文化、学問の存在を興味ある人に伝えることは切らしてはいけないと思います。現代日本で使われなくなったからこそ、文化の保全という意味で、古典漢文という学問の重要性は逆説的に高まっていると言えると思います。

入試を質に取らなければ学ばなくなってしまうようなことって、無理にやらなくてはならないのでしょうか。またはやり方が違っているのではないでしょうか。

入試は「高等学校卒業程度認定試験」と同じ扱いでいいのかもしれません。難解な出題で差をつけることは入試でやらなくていいような仕組みがICTの活用でできるような予感がします。もしかしたら、入試もいらなくなるのかもしれません。

しかし、今の生徒はあるシステムの中でやるしかない。そこに送り出さねばならない私たち今の教員は、問題を感じながらも、それに対応する生徒を育てるという矛盾をやり続けなくてはならない。そして、変えるべく声を上げ続けなくてはならない。たとえどんなに小さくても。

いろんなことを考えることができた貴重な学びの時間でした。

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