「忖度力」の育成

最近ふと思いついた概念です。「忖度力」。はじめは冗談で言語化してみましたが、これは意外と深刻な内容かもしれないと思い至りました。
「相手の気持ちを察する力」は大切ですが、どうも現状の教育環境では行き過ぎてしまうことになっているようです。
日本の教育で、学習者に身に着けさせてきた力の中心は実はこれではないのかなと。そのもとは、試験の偏差値による人間の能力の差別化にあります。

試験は問題作成者、採点者の意図を忖度することを求めます。
授業で主体的な学びを求めるのとは裏腹に、試験では採点者が定めたルールに基づいて採点されます。表現の主旨があっていても、問題作成者が設定し、採点者が許容した回答しか正解となることはなく、回答者の表現は「ダメ」なものとして扱われます。
小論文も試験になったとたん、批判ではなく、否定になります。論文は批判的に読むものであり、否定すべきものではありませんが、試験になると差をつけるため、よいところで比べるのではなく、悪いところで比べざるをえません。

このような状況において、試験を受ける学習者はどうすればいいかというと、問題作成者、採点者が何を答えてほしいか忖度する力を伸ばせばいいことになります。
主体的で対話的で深い学びにより、各分野により特化した人材を育てていては、共通テストの点数が下がります。なぜなら、自分の読みとりは否定されるからです。
つまり、試験で能力評価をするなら、普段の授業から、主体的に自分の意見を述べるのではなく、教師の意図を忖度するような活動をした方がいいのです。

私は私の意図を忖度するようなことはしてほしくないと思います。人の顔色をうかがうような日本人はこの教育システムによってできているのだと気づきました。
どうか、学びに触れたことで進路の接続が叶うシステムになってほしいと切に願います。学びを楽しく意義深いものにすることがAI時代を生きる人にとって必要なことであると広まるといいなと思います。

しかし、試験がある以上、私は次年度以降、関わる生徒の忖度力を鍛えねばならないなと頭を悩ませています。
何に忖度するかと言えば、共通テスト、そして各大学の入試です。
大学入試に出た文章をどう読むかではなく、大学の先生がどう答えてほしいかを自分なりに忖度し、生徒に忖度させ、忖度の方向性があっているかどうかを検証します。
模擬試験対策も重要です。そこには個人の読みがあってはなりません。
象徴的なのは共通テストの対話問題です。正解の選択肢以外は間違いと切り捨てられます。わずかな誤読も否定されるあの問題に回答するためには、日ごろの自由な話し合いではなく、正解の探し合いが効果的です。

教科書をやったり、話し合いの授業よりもあの膨大な分量の文章を限られた時間内で読み、正解を忖度する訓練をせねばなりません。

入試がある中、多数の学校が学び合いに舵を切るなら、相変わらず忖度力を鍛えた方がいいのではないかと思うところもあります。(点数的には有利になります。)

試験をどう作り変えてもおそらくダメです。
主体的な学び、個別最適化された学びは人それぞれの多様な学びを目指します。そこには相対評価は存在しえません。
たいして入試は一律の知識の量を問います。
この時点で本質的に矛盾するのです。
両立はしません。入試がある限り、必ず主体的な学びは頓挫します。
偏差値重視で過ごしてしまった70年間の歴史。文化とすらなっているこの世の中を変えるには、盤上をひっくり返すような激変が求められます。
しかし、それをやれれば、世界のどこよりも先んじて、AI時代に人材を送り出せる国になれる可能性もあると思います。
どこかの国のまねをするのではなく、日本のスタイルを他国が真似るような教育体制にできない者でしょうか。
9月学期はじめ、誕生日入学、一斉履修ではなくICT活用で資質能力修得を重視し、個別の研究を奨励する。先生の役割は知識とつなぐファシリテーターを担う。もしくはWeb上にあるデータ検索の方法や機械の使い方を教える。知識はWebで得る。体のある世界からメタバースへの橋渡しは、体と端末がある位相に存在する人間が担うことは必須です。導いてしまえばもしかしたらWebで完結する子も出てくるかもしれませんが。

Webにアクセスできない人が淘汰されていくような世界は望ましくないなと思います。そんなのは人が目指すべき進化の方向ではないなと。
多くの人の価値観、多様性が認められる世界になることを切に望みます。

学習指導要領の記述を見たり、文部科学省の方のお話を伺う機会を得る度に、試験の本質から離れたことを現場に求めながら、現行制度の抜本的な改革はなされない状態を苦しく感じます。

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