『三度目の殺人』の感情と制度

単純に思われた事件が実は複雑怪奇、というのは推理もの、探偵ものの常道だが、『三度目の殺人』はさらに手が込んでいる。事件の真相がすべて明らかになるとは言えない結末は、たとえば『母なる証明』(09)などを思わせる。真実を覆いかくす闇に包まれながら、観客はそこまで深入りしてしまった自らの陰気な好奇心の罪業に気づかされることになる。そしてなお深い淵の存在に魅かれつつも、映画はひっそりとエンドロールに入ってしまうのである。

工場の経営者が河川敷で殺され、全身にガソリンをかけられて燃やされる、その犯行の場面から映画は幕を開ける。手を下しているのは工場の従業員の三隅(役所広司)だ。右の手の甲で左の頬を拭うようにし、そこには鮮血が付着している。財布を奪って逃走した三隅には金銭目的の強盗殺人の容疑がかけられ、死刑の判決が避けられない情勢となる。弁護人の摂津(吉田鋼太郎)は司法修習で同期だった重盛(福山雅治)に助けを求める。重盛は無期懲役に持ち込もうと部下の川島(満島真之介)と調査を行うが、三隅の二転三転する供述、被害者とのメールの履歴などから新たに明かされる事実のために、次第に混乱を深めてゆく。

殺された工場経営者の妻の山中美津江(斉藤由貴)は三隅が重盛に託した謝罪の手紙を破り捨て、涙を流して怒りに声をふるわせる。しかし重盛が調査を開始して間もなく三隅は週刊誌上で手記を公表し、殺人は保険金の受け取りを目的とした美津江の依頼によるものであったと述べる。美津江はこれを否定してその真偽は決着せず、三隅に口止めを命じるかのようなメールが証拠として提出されたものの、その文面はあくまでも工場の食品偽装についてのことだったのだと、美津江は娘の咲江(広瀬すず)に打ちあける。

その咲江も潔白とは言えない。咲江は公判の途中で、死んだ父から性的暴行を受けていたことを重盛たちに告白し、自分の父への憎悪が三隅に伝わったのだと言う。さらに三隅は裁判の終局ちかくで自身の犯行を否定し、咲江の犯行という可能性も存在感を持つようになってくる。咲江と三隅が事件前の雪の日に撮った写真の親しげな様子も明らかになり、また重盛と川島が事件現場を訪ねたとき、その人気のない河川敷に咲江の姿があったことも、何か怪しい。そして咲江が河川敷で赤々と燃えあがる炎を前に顔を拭う場面も挿入されるから、冒頭の三隅の犯行場面は事実性の保証を失う。映画は真実を隠蔽するどころか、そのようなものなどありはしない、という地点まで後退して観客を裏切るのである。

またもちろん、財布を手に逃走する様子をタクシー会社のカメラにとらえられていた三隅の嫌疑も容易に晴れない。三十年前に彼が犯したとされる事件を裁判官として担当した重盛の父(橋爪功)は、三隅は快楽殺人を行う人間なのだと強調する。拘置所の面会室で、生まれるべきではなかった人間は存在する、そして理不尽に命は選別されている、と憤りをあらわに主張する三隅は、被害者の生前の行状に義憤を感じたのかもしれないし、最終的に自身が死刑に処されることで自分の命を公正に選別させようと考えたのかもしれない。『うなぎ』(97)で妻を殺しても、『十三人の刺客』でいくら人を斬っても、『虎狼の血』(18)で非情な刑事として凄んでみても、役所広司はその声色や表情の端々に物腰の穏やかさが残ってしまうのだが、本作ではそれが底知れぬ不気味さにつながっている。

重盛たちが苦しむのは、誰のために弁護するのか、ということが全くわからなくなってゆくからだろう。改心した犯人を前に遺族が感情の行き場を失う『シークレット・サンシャイン』(07)も感触は近い。三隅の立場に感情を傾斜させることもできないし、美津江や咲江もいまひとつ何を考えているのかわからない。手段を選ばない弁護側の態度が、被告が罪に向き合うのを邪魔する、という検察側の篠原(市川実日子)の発言を嘲笑し、犯人を理解し真相を明らかにしようという川島の言動を否定する重盛は、そもそも真相の究明には興味を持たないと語っていた。

しかし真相を隠す霧のあまりの厚さ、謎のあまりの多さに、重盛もかえって真相の理解を希求するようになる。『藁の楯 わらのたて』(13)では大資産家の手で莫大な懸賞金のかけられた殺人犯が警察に出頭し、その男を九州から東京へと護送する役目を負わされたSPの葛藤が描かれていた。目の前の男を殺せば、多額の金を得られる誘惑にかられながら、その命を狙う者たちの手を避け、防がねばならない。ここで危機に晒され、試されるのは自身の遵法精神である。この、誰のための警護かわからなくなる、という混迷は派手なアクションとともに展開されるのだが、本作にはそれもなく、ただ緩慢に観る者へ苦みを与えつづける。

面会室のアクリル板をはさんで、三隅と重盛は何度も対峙する。板を透けて見える三隅の顔と、板に映る重盛の顔が重なり、離れ、また重なる。二人の境界が溶け落ちるのは、ともに北海道出身で娘を持ち、妻と不仲であるという共通点による共感だけが理由ではない。三隅の二転三転する供述、曲折する論理に重盛は翻弄され、三隅の混乱が重盛に伝染するからであろう。板ごしに掌をかさねて体温を感じる不思議な行動は、私の気持ちは三隅に伝わった、と断言する咲江にもなされていたらしい。こうして三隅と咲江の境界もまたあやうくなっていて、それが困難を加速させる。冤罪を主張しはじめる三隅を前に怒りと悲しみを隠せない重盛の表情は、真実には興味がない、犯人を理解する必要はないと告げていた当初の様子とはあきらかに異なっている。

理不尽に命は選別されている、という三隅の言葉は余韻を残しつつ、映画はその理、すなわち道理や論理を尽くしているはずの裁判もまた有名無実である可能性を見せつける。真相を究明し、犯人を罪に向き合わせることを目指そうとしていた篠原も川島も、冤罪の主張に合理性を認めない裁判官の判断の前には無力である。三十年前の事件と今次の事件、劇中にはすでに二度の殺人がある。そして死刑が言い渡されたのちに裁判所をあとにする重盛は、三隅と咲江が頬の血を拭ったのと同じ手つきで、何もついていない左頬を拭うような仕草をする。題名の「三度目の殺人」とは、三隅に対して行われる、死刑そのものであることがようやくわかってくる。三十年前の事件の真犯人が三隅ならば、重盛の父がそれを裁き、三十年をかけてゆっくりと殺人の行為が重盛の手に明け渡されたとも見ることができる。かくして、理不尽な命の選別の執行は、国家の側にたぐりよせられてゆくのである。

是枝裕和監督。2017年。

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