忘れられない小説ー『村上龍映画小説集』

二十三歳の頃だった。私は美術大学に通っていた。今、考えるとなぜ美大を選んだのかよくわからない。確かに父親が美術の教師で油絵を描くのをながら育ったのだが、自分も画家になろうなどと思ったことはなかった。たぶん仕送りが欲しかったのだと思う。どこか大学に入らなければ仕送りは貰えなかった。私は、世間的に言うと、二年浪人をしたということになっていたが、「浪人」というイメージからひどく遠い生活を、米軍の横田基地の傍で送っていた。年上の女と同棲し、GIと付き合い、ありとあらゆる麻薬をやり、いろいろな容疑で何度も留置場に入った。反道徳的な暮らしだったが、楽しいと思ったことはあまりない。 『甘い生活』より

小説を読んだら、その小説が気に入ることもあるし、感動するかもしれない、途中までよかったのに結末に納得しないかもしれない。でも、良い作品とか悪い作品とかじゃなくて、感動ともまた違う、読んでからずっと忘れられずに心に抱えていく小説が誰にだってあると思っている。私にとっての忘れられない小説が何年か前にBOOK-OFFで108円で買った『村上龍映画小説集』だ。

『甘い生活』『地獄の黙示録』『レイジング・ブル』みたいに映画のタイトルが連作短編1つ1つのタイトルになっている。映画の内容やどういうシチュエーションで見たかが、セックスと薬物で溢れた無気力な20代前半の生活と共に描かれている。また、主人公は村上龍と同一視されるような半生を送っていて、半自伝的な小説とも言われている。

この小説の特徴のひとつは乾いた視線と突き放したような距離感だろう。過ぎ去った若いころの生活を振り返る小説は星の数ほど存在して、そこには感傷的な青春が描かれている。“当時の僕は彼女の思いを受け止めるには幼すぎた。考えもしなかったのだ、彼女がどんな思いで僕のそばにいたのか”。この文章はそんな小説を想像して、今適当に書いたものだ。『村上龍映画小説集』ではもっとすべての出来事が即物的に描かれている。例えば、有名(?)なセックスについての描写とか。

・・・畳の上でセックスをした。痩せた女とのセックスに比べると、信じられないくらいあっさりと終わった。キューピーのゴム人形を持って、たらいで行水したような感じだった。 『地獄に堕ちた勇者ども』より

書いていて思ったのだが、僕が『村上龍映画小説集』について書きたかったのはこういうことじゃない。この小説の特徴を抽出して紹介したいのではない。たぶん僕はもっと生理的な傷とか衝動とかについて書きたかったのだ。

もちろんお互いに傷つけ合うことに何が意味があるわけではないし、そんなことに価値はない。だが関係性が生まれればどういう形にせよ傷は発生する。そしてその傷から自由になろうと決めて努力する場合に限り、傷は何らかの意味を持つのだ。 『ブルー・ベルベット』より​

この文脈でのお互い傷つけ合うというのは言葉の暴力などではなくてセックスのことなのだが、とにかく生きて何かと誰かと関係性を持つと、傷が発生する。当然これは世の中に対しての悲観的な見方ではない。希望や絶望みたいな人間の思考以前の、生理的な傷なのだから事実として傷は発生する。

12編の短編のうち一番最初に掲載されているのは『甘い生活』で、フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』に関するエピソードだ。美大入学前から警察沙汰を起こいしていた主人公には美大の同級生が幼く見えて、仲良くする気がなかったのだが、校庭でサッカーをする同級生のなかで一人だけ上手だったサクライという男と仲良くなる。サクライは映画好きで二人で映画を見に行くようになり、映画を撮ることもして、月日は流れて、サクライは映画を職業にしたいという思いと就職を迫る家族のあいだで揺れ動きながら就職活動を行うようになり、主人公はひとりで映画を見に行くようになる。そんななかで見た映画がフェリーニの『甘い生活』だった。

『甘い生活』を見たことを伝える相手がサクライしかいなかったのだ。何かが生まれてしまっていて、それはどうしても誰かに伝えられなくてはならなかった。私は手紙を書くことにした。アパートの、サクライの部屋の軒下で、郵便受けに突っ込んであった新聞の間からチラシをとり、その裏にサインペンで書いた。紙は濡れていて、手は寒さでかじかみ、サインペンの字はにじんでしまった。フェリーニにはすごい、お前は映画をやれ、代理店なんか止めろ、一緒にいつか映画を作ろう。と、それだけを書いて、郵便受けに入れた。自分の部屋に戻って来て、サクライに伝えたかったことの、一パーセントも手紙に書けなかったな、と思った。からだが冷え切っていて、瓶の底の方に少し残っていたウイスキーを飲んだ。描きかけの絵と、書きかけの小説があって、両方とも破りたくなった。だが、私は、破らなかった。  『甘い生活』より

小説にしろ、映画にしろ、人物にしろ出会ったときに私たちはどのような行動原理を使うか。一般的な行動原理はこうだ。私たちは作品に魅了され模倣しようとする。例えば、もう一人の村上である村上春樹は過去にフィッツジェラルドに魅了されてその小説の魅力がどこにあるのか、文章を翻訳したり、何度も点検するように読み返して突き止めようとしたことを告白している。(僕も村上春樹の訳したフィッツジェラルド、特にリッチボーイが大好きで何度も読み返している。)そうやってどうやってその作品が生まれたのか、なぜ私は感銘を受けたのかを考える。その時に実際に行われるかどうかは別にしても、どうやったら同じような作品を産み出せるのか、つまり、どうやったら模倣できるかを考えている。とにかく、ここで私が考えているのは私たちは作品と出会い、魅了→模倣という行動する。(もちろん村上春樹が直接的にフィッツジェラルドの模倣をしたというつもりはない。)

しかし、村上龍には魅了→模倣ではない行動原理がある。それが、衝動→伝染である。例えば、村上龍の別の小説『五分後の世界』では、とある歌手がライブを行い、それを聴いた群衆が会場で暴動を起こすシーンが描かれている。

衝動に駆られる=善悪の判断を伴わないで、反射的・本能的に物事を行う気持ちが強くおきること

ライブ会場で発生したエネルギーが、衝動が、歌手から観客へ、観客から観客へと伝染していき、暴動が生まれる。観客は善悪についても歌声の良し悪しについても考えずに、反射的・本能的に物事を行う。魅了されているのでも模倣しようとしているのでもない。生理的な衝動伝染していくのだ。このような衝動→伝染現象は他の小説、例えば『コインロッカー・ベイビーズ』などでも見られる。いや、それだけでなく、村上龍の小説世界の外でもだ。前述の村上春樹が村上龍の生み出した衝動伝染するようにして『羊をめぐる冒険』を書いたのは有名な話だ。決して魅了されたわけではない。

もうひとつ、僕がこの作品を書くことができたのは、その一年ほど前に村上龍氏が『コインロッカー・ベイビーズ』という力強い作品を書いていたせいもあると思う。僕はその小説の有する長編小説的エネルギー(それは他の何者によっても代換されえないものだ)に揺り動かされたし、それが僕にとってもかなりの創作の刺激になったと思う。優れた同時代のランナーを僚友としてあるいはライバルとしてあるいは目標として(あるいはその全部の混合物として)持てることは、創作をする人間にとっては貴重な財産である。『羊をめぐる冒険』を書くにあたってはそういう刺激がけっこう大きな推進力の役割を果たしてくれた。

さて、『村上龍映画小説集』に戻ろう。登場する映画のいずれにも主人公は魅了されてはいない。

紙は濡れていて、手は寒さでかじかみ、サインペンの字はにじんでしまった。フェリーニにはすごい、お前は映画をやれ、代理店なんか止めろ、一緒にいつか映画を作ろう。と、それだけを書いて、郵便受けに入れた。

まさに衝動に駆られたとしか言えない描写だ。巨大なエネルギーを放つ映画たちと20代前半の主人公は出会う。衝動が伝わったとき、伝染して、行動が生み出されるのだが、もう一つ発生するものがある。それが傷だ。

だが関係性が生まれればどういう形にせよ傷は発生する。そしてその傷から自由になろうと決めて努力する場合に限り、傷は何らかの意味を持つのだ。

この小説は映画を見たことで生まれた傷についての小説だ。

あの夜、私は非常に興奮していたが、同時にひどく打ちのめされていた。フェリーニは圧倒的で、私は自分の書きかけの作品に絶望したが、誰かに何かを伝える、というようなことに対して生まれて初めて敬意を持ったのだった。誰か、というのはサクライではなく、何か、というのは手紙ではなかった。 『甘い生活』より

ここでの傷は痛みについての比喩ではない。月日が経って主人公が小説家としてデビューしても忘れられない、肉体に刻まれるものだ。刻まれているからこそ、フェリーニの映画を見たあの夜の打ちのめされた感情をサクライと出会ってから20年経っても主人公は覚えているのだ。

この小説をずっと忘れられない小説と形容するのは不正確かもしれない。村上龍は良い作品や悪い作品を生み出しているのではない。衝動を放っている。『村上龍映画小説集』には消えない傷が描かれていて、読者にも消えない傷を刻む。忘れられないのは感動的だからではなく、傷とは各々の体に刻まれたものであるからだ。


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