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そろそろ一律教育をやめてみては?

こんにちは。
季節は、秋めいてきましたね。

先日、3か月ぶりに実家の飛騨高山に帰ってきました。
色々な目的があったのですが、それとは別に、今回も感性を芯から揺さぶられたのは、あの高山の町並みの美しさです。
整然とした、そして凛とした独特の空気と風景は、他のどこの地方に行っても味わえない感覚です。

中橋
上三之町

高山は、春や夏も良いですが、秋深まる季節と、雪景色がたいへん似合う町です。
これからが行き頃になるでしょう。

■人に残された数少ない武器とは

私は今年からまた大学に入学し、アートとデザインを教養として学んでいます。
私が人生を通して追求したいテーマが、
芸術
哲学
民族学
自然科学
と、いろいろと欲張っていますが、
近年、「教養」(リベラルアーツ)の必要性が、急に盛り上がっているようです。

グローバル企業ではすでに、MBAよりもMFAを役員に迎えるというトレンドが、ここ10年ほどで起きています。

MFA(Master of Fine Arts)
美術学修士

「ビジネスマンには、機械にはない人間独自の能力が重要となる。その独自の能力とは、“創造性”の他にない。
現代のビジネスにおいては、“アートの力を持つこと”が、経営学を学ぶことに匹敵、もしくはさらに重要になってきている」

ダニエル・ピンク

過去の正解が通用しないVUCAの時代。
答えを探るために、人間が持っていて、まだ使っていない武器。
それが、「創造性」(Creativity)です。

創造性は、人類が工業化の時代に入ってから、ほんの一部の人にしか必要ありませんでした。

ところが、過去の正論が通用しなくなった昨今、もう一度、「創造性の復権」が、待ったなしに待望されています。
混迷を極める時代を、突破するキーとなるからです。

■「みんなで平等に」は、歩みを遅らせる

創造性は、誰にでも備わっていると思います。
子供の頃、
レゴで遊んだり、
どろ団子を作ったり、
絵を描いたり、
創作文を書いたりした経験があるなら、誰だってその素養は持っています。

ただ、その素養は、経験によって発揮しづらくなっていることは事実です。
大人になり、職業を選び、創造性はそれほど必要とされない環境だってあるでしょう。

社会において「創造性の復権」が望まれている、という大きなトレンドを踏まえて、私はひとつ提言をしたいことがあります。それは、

どんな企業でも「創造性回帰の胎動」を起こし、
創造性という「素養を回復させる」必要がある、ということ。

そして、多くの企業がその必要性を感じながらも、実際には、どう踏み出して良いかわからない、というのが現状でしょう。

踏み出せない理由の最大の要因は何でしょう?
それは、「みな平等に、能力を開発すべきだ」という勘違いです。

「不平等」というものを忌み嫌う人は、ものすごく多いし、根深い信念です。
自分が不平等な扱いをされたら、「あの人はなぜ特別扱いなんだ」と文句を言いたくなるだろうし、そういわれると、こっちも引っ込めざるを得ない事情もよくわかります。

しかし、こと「能力開発」においては、その「平等神話」こそが、足を引っ張ってきたのです。
「一律教育」という、まるで義務教育の延長戦をやっているかのようなしくみは、根強く残っています。
その必要性を、疑われたことすらないかもしれません。

■「待ったなし!」学校を出た時点で競争は始まっている

社会人になれば、何か月もかけて「教育のし直し」が行われます。
これは、何のためでしょう?
社会人として、そして企業人として、責任あるプロフェッショナルとして、一定の水準の知識とルールを得てもらうためにあります。

極論を言えば、社会人教育はそこで終わり、ではダメでしょうか?

「学校を出れば、競争が始まる」
という当たり前の現実を、いったいどれほどの大人が理解しているのでしょうか?
「最低限の一律教育は、新入社員研修で終わり」は筋が通っていませんか?

社会人・企業人ですから、親に面倒を見てもらっているわけではないのです。あとは、本人の努力次第なのです。

さらに現実を見れば、コロナ不況で、一律に社員を教育する金銭的・時間的余裕が、企業にそれほど残っていないかもしれません。

実際、私のお付き合いのある企業では、社員研修は基本「手挙げ式」でしか行わない、というところもあります。
「手を挙げれば、場の提供はする。さらに、費用は会社とあなたの半々でもつ」という具合です。

■真の多様性を叶えるために

「平等第一主義」を打ち破るには、
それぞれの能力や課題に応じて教育の機会を提供することが、企業にとっても、社員個人にとってもWINとなります。

一律教育をしたって、必ず一定の社員は、上司や人事に言われて「やらされ感」で出てくるのです。
なんともったいない。。。

学校教育を受け、社会人教育を受けた人が、それ以上の成長を望まないなら、それはそれで「線」を引くべきです。
なぜなら、
そうした「成長を望まない人たち」は、必ず「成長を望む人たち」の足を引っ張るからです。

「学ぶ機会を放棄して、成長を拒んだのなら、
それは個人の責任。
そのまま埋もれていくのも、自分が選んだ道。
『やらされ感』で教育に付き合うなら、
やってもらわなくてけっこう」
そうしたスタンスは、むしろ「平等」を越えた「公平」ではないでしょうか?

能力と課題に応じた教育。これが何より大切です。
それを認識し、成長を望む人に投資をすれば、その成果は何倍にもなってもたらされるはずです。

「創造性開発」も、じつは一部の人たちのためにある教育だと思っています。
手を挙げた人たち、選ばれた人たちが、取り組むからこそ、その見返りは企業にとっても大きいのです。

VUCAの時代には、創造性の開発が、人の潜在的な武器を開花させるキーとなりました。
一部のこうした人が、チームに、組織に、企業に、大きなインパクトをもたらすことはイメージができるはずです。

誰しもが持っている創造性ですが、事情によって発揮しにくい人もいるし、事情によって発揮しやすい人もいる。
後者の人たちを集め、集中的に能力を開花させ、組織の将来のために一点突破させる。
これはなにも、「創造性の開発」だけに限ったことではありませんね。

分析力の開発、
遂行力の開発、
さまざまなテーマにおいて、人それぞれに強みとして持っているはずです。

真のダイバーシティとは、
「一律」とは”真逆”の取り組みの先にあるのです。


「この考え、一理ある」という方は、ぜひ私にお声がけください。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

<今週の箴言>
人間の幸不幸は運によるところも大きいが、
その人の気質によるところも、これに劣らず大きい。

ラ・ロシュフコー


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