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”甘え”が受けれられる世界へ

こんにちは。

いよいよ年末ですね。
今日、久しぶりに都心に出てきたのですが、なんと人出の少ないこと。。。
当社のある丸の内界隈でも、まるで静まり返ったような雰囲気でした。

”リモート”という呼び方に代表されるように、
今年は、「距離」というものにたいへん敏感になった一年でもありましたね。

そんななかで菅首相が訴えた「自助、共助、公助」という社会システム。
私は個人的に、当たり前のことだなあ、と思って聞いていました。

しかし、なぜかこれにケチをつける人たちがいるようです。
「順番が違う」とか「政府の役割を放棄している」といった、どこか浮世離れした意見の数々。
日本が民主国家であるかぎり、まずは「自分で努力してみる」は、なんの不思議もないことだと私は思うのですが。。。

今年最後のコラムテーマは、この現象に洞察を得た「甘えと依存」についてです。

■”甘え”が排除される世界

ビジネスの現場では、とかく”甘え”が排除されがちです。
「甘やかしてはいけない」
「甘えになるから、手を貸さない」
「甘ったれるな」
というセリフが、よく飛び交います。

どうやら私たちの認識には、甘えは本人のためにならないという既成概念があるようです。

いったい、それはなぜでしょうか?
私見ですが、それは以前のコラムでも触れた「世の中、公平でなければならない」という都市伝説が、信じられているからではないでしょうか。

「努力している人がいる一方で、甘える人は努力をしないからズルい」

こんな不公平感を感じるからではないかと。

甘える人は、自分で努力しない。
いつまでたっても一人前にならない。
甘えられる人がいつも忙しくなるから、迷惑だ。

などなど、”甘え上手”はとかく敵を作りがちですね。

しかし、そんな人にはこう問いかけたい。
「あなたは本当に、今まで誰の手も借りずに成長してきたのですか?」と。
断言しますが、そんな人はいないはずです。

自助は確かに大切ですし、それがものごとの順序でもあります。
が、行き過ぎた「自助の押し売り」つまり、「甘えの排除」は、
かえってその人の成長余地を奪ってしまう気がします。

その理由を挙げます。


■”数”では割り切れない関係性

甘えとは、人の好意をあてにする。という意味です。

まじめな人は、これを読んだだけで、
「ほら、人に依存しているということだ。そんなことは許せない」と言うかもしれません。

しかし、どんな人生でも、人に助けを求めたことがない人は、いないでしょう。
人の好意をあてにすることがいけないなら、人生なにがあっても自助で乗り切らなければならず、
なにもかもを自分で解決しなければならなくなります
共助が必要なくなってしまうわけです。

いくら自助が大事だからといっても、それが行き過ぎるとたいへんです。
いっさい人の手を借りない。
助けを求めない。

つまり、甘えの排除は行きつくところ、
「自分で何もかもをやろうとする、かえって迷惑な、万能感をもった人」
を輩出することになります。

私たちは、誰も一人では生きていくことはできないはずです。

「自分一人で生きている」という人がいたとすれば、それは
水道や電気、食糧をすべて自分でまかない、
誰の所有物でもない土地に暮らし、
自分で養生した服をまとい、
霞を食って生きている仙人くらいです。

生きていくうえで、甘えというのはある意味、
・他者との円滑な関係を築く
・社会的なコミュニケーションスキルを磨く
・コミュニティの機能を効率化させる

ことにつながっていると思います。

人に甘える。つまり、好意をあてにする。
あてにされた誰かがそれに応える。

そのことによって、
win-looseでもなく、駆け引きでもなく、ギブ&テイクでもなく...
むしろそういったデジタル的な在り方を超越した、
人間どうしだから築ける、「数では割り切れない関係性」が成り立つのではないかと。

そういった理屈を超えた人間関係に成り立つコミュニティもまた、
人にやさしく機能をするのではないかと思います。


■”依存”との折り合い

ところが、その甘えが行き過ぎたとき、”依存”となって
これまた人間関係を壊します。

依存とは、「~依存症」と呼ばれるように、それなしでは生きられないレベルにまで
頼り切ってしまう生き方です。

甘えと依存の違いは、
まさに「自助」があるかどうかの違いだと思います。

甘えの前提は、
自助がまずあり、そのうえで人の好意をあてにする
という秩序があると思います。

が、依存は違います。
自助がなく、それなしでは生きていけないという、いわば「全面的に自分を投げうつ」姿勢です。
ひとつのこと、一人の人がなければ、自分が消えてしまう恐れを常に抱えた生き方です。

組織としては、こういう人を生み出すと厄介です。
なぜなら、「依存されることが好きな人」もまた存在するからです。

無意識のうちに、手を指しのべ、その人の肩代わりを本能的にしてしまうような、お人好しがいるからです。
しかし、この二者の関係は、きわめて「デジタル的な関係」と言えます。

どちらかが、どちらかの力を一方的に抜いていくからです。
つまり、依存する側が、される側のパワーをどんどん吸い取る「マイナスのみの関係」とも言えます。

甘えと依存の折り合いを見極めるには、
「まずは自助」という概念を、理解してもらうことが必要です。


■余裕のある人たちがいる環境

甘えなら、ある程度許してあげませんか?
しかし、それが依存なら、自分と組織のために、自助のためのサポートをしてあげましょう。

甘えをある程度許せるような、余裕のある人たちがいる
そんな環境だと素敵だなと思います。

たいへんなことが起きた2020年を経て、来年は、
そんな甘えが笑って受け入れられる、心に余裕のある世界
になってほしいと願います。


本年もこのコラムをお読みいただき、ありがとうございました。

また新年に、このコラムでお目にかかれればと思います。


どうぞ、良い年末年始をお迎えください。

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)
われわれの美徳は、ほとんどつねに、
仮想した悪徳にすぎない。


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