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世紀を超える大傑作『ストーリー・オブ・マイライフ』を観た。

【『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』/グレタ・ガーウィグ監督】

原作は、ルイーザ・メイ・オルコットによる自伝的小説『若草物語』(原題:『Little Women』)。1868年に出版されて以降、150年以上にわたり今もなお世界中で愛され続けている永遠の名作だ。

僕は今作を観ながら、この時代において、『若草物語』が新しく語り直される理由を探していた。

それでも、途中で気が付いた。「多様性の時代」「女性活躍推進の時代」。そうした文脈の中に、今作を無理矢理に位置付けようとすると、大切なものが擦り落ちてしまう。

僕は、特定の時代やテーマに縛って考えようとしていた浅はかな自分を恥じた。そして、確信した。

この映画には、いくつもの世紀を超えていく、究極の普遍性が宿っている。

《今日も「自分らしく」を連れて行く》

19世紀から懸命に語り継がれてきた願い、祈り、覚悟。その全てが、いつの日か必ず結実する未来を信じながら、グレタ・ガーウィグ監督は、この『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』を作り上げたのだ。


今作を紐解くにあたっては、まずはじめに、この映画を編み出す3つの異なる視点を整理しなければならない。

それが、原作の作者である「ルイーザ・メイ・オルコットの視点」、今作の主人公である「ジョー・マーチの視点」、そして、この映画の監督を務めた「グレタ・ガーウィグの視点」である。

今作を俯瞰して観ると、時代を超え、そして、フィクションと現実の壁を無化しながら、3人の女性の魂が多層的に響き合っていることが分かるだろう。

例えば、主人公・ジョー・マーチが19世紀のニューヨークを駆け抜けるオープニングシーンについて。この描写は、ランニングが趣味であったという原作者・オルコットの自由闊達なキャラクターを投影するものだ。そして、ガーウィグ監督が主演を務めた『フランシス・ハ』(2012)における、主人公・フランシスがニューヨークを疾走するシーンとも重なる。

また、この映画が放つ「何度でも、自分自身に生まれ変われ」という鮮烈なメッセージは、言うまでもなく、オルコットの自伝的小説の延長線上にあり、また、ガーウィグ監督の自伝的映画『レディ・バード』にも通底している。

何よりも特筆すべきは、この映画の「構造」が明らかになるクライマックスシーンだ。オルコット、ジョー、ガーウィグ、その3人の「選択」が美しく重なり合ったあの瞬間、魂を揺さぶられるような感覚を覚えたのは、きっと僕だけではないと思う。


そして最後には、幾重にも折り重なった「わたしの物語」が、一人ひとりの観客である「わたしの物語」へと繋がっていく。

そう、この物語は、まだ終わってはいないのだ。

その物語を「闘い」と呼ぶか、もしくは「生き様」と呼ぶかは人それぞれかもしれないが、いずれにせよ、現代を生きる僕たち/私たちは、ジョー・マーチが授けてくれた魂のバトンをしっかりと受け取らなければならない。

それは、いつかオルコットが原作小説に託した想いが結実する未来のためであり、そして、他でもない「わたしの物語」の主人公である自分自身のためでもある。

その必然として、この映画は、これからいくつもの世紀を超えて必要とされ、愛され続けていくのだろう。

その究極の普遍性に、強く心を震わせられた。




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