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私たちは、光の中で生きていく。映画『すずめの戸締まり』が示した絶対的肯定について。

【『すずめの戸締まり』/新海誠監督】

この世界を生きていく上で、時に私たちは、理由もなく降りかかる悲しみと対峙しなければならない。例えば災害は、意志も目的もなく、ただただ不条理に私たちの日常を奪い去っていってしまう。

「あの日」の朝、「いってきます」と言って家を出た人たちが言えなかった「ただいま」の言葉。「いってらっしゃい」と言って送り出した人たちにかけることができなかった「おかえり」の言葉。当たり前のように続いていくように思えた日常は、たった一瞬で、無慈悲に断絶され得ることを、私たちは「3.11」に改めて思い知った。

見慣れていた景色が不可逆的に変容する。平穏な日常が音を立てて崩れ去っていく。何の前触れもなく訪れるそのあまりにも不条理な悲しみに、私たちはどのように向き合っていくべきなのか。そして、その悲痛な現実を生きる私たちに、映画は、物語は、何を描き届けることができるのか。

新海誠監督は、メジャー進出以降、『君の名は。』において彗星落下を、『天気の子』において超常現象としての豪雨を描いてきた。そして彼はついに今作で、実際に私たち観客の身に起きた災害、2011年の東日本大震災というテーマに真正面から挑んだ。もちろん、『君の名は。』や『天気の子』においても、3.11からの影響を感じ取ることはできたが、作品内において直接的に言及するのは今作が初めてである。2010年代以降の震災文学の系譜に、自らも連なるという新海監督の強い覚悟を感じる。


私たちのもとに理由もなく降りかかる災禍。そうした不条理な悲しみに対抗し得るのは、同じように、理由もなく私たちを包み込む不条理な愛しかないと、僕は思う。そして、時間や空間を超えて、送り手の不条理な愛を受け手に届けることができるのが、映画や音楽をはじめとした表現の力なのだと思う。それはもしかしたら、願いや祈りにも似たものなのかもしれない。たとえ理由や根拠がなくても、いつかどこかで受け取ってくれる誰かにとっての救いや希望、道標となるような作品を作り続ける。多くのクリエイターは、そうした果てしない表現の可能性を信じながら表現活動を続けている。他でもなく、新海監督もその一人だ。

新海監督は約20年にわたり、アニメ映画制作を通して、混迷の日々を生きる私たち観客に「大丈夫」と伝え続けてきた。その言葉が根拠のない絵空事だとしても、少しでも観客が豊かな実感をもって「大丈夫」と感じられるような物語を懸命に紡ぎ続けてきた。観客の日常を、そして人生そのものを絶対的に肯定することこそが、新海監督の表現の出発点であり、その一貫した表現姿勢は、特に『君の名は。』以降、さらに先鋭化されている。RADWIMPSの主題歌"大丈夫"によって彩られた『天気の子』のクライマックスは、新海監督が2010年代を通して辿り着いた一つの美しい到達点だったと言っていいだろう。

そうした想いを胸に表現活動を続けてきた新海監督にとって、決して避けて通れなかった大きなテーマが3.11であり、過去2作品とは異なり、実際に起きた災害を物語の中で扱うからこそ、今作に懸ける彼の覚悟は並々ならぬものだったのだと思う。あの日、かけがえのない日常や大切な人を失った人たちに、どれだけ時間が経っても消えることのない哀しみを心に抱えて生き続ける人たちに向けて、映画を通して「大丈夫」という実感を送り届けることができるか。3年ぶりの新作『すずめの戸締まり』は、新海監督にとって、かつてないほど大きな挑戦だった。


今作は、主人公の岩戸鈴芽(原菜乃華)と宗像草太(松村北斗)がバディを組んで日本中を旅するロードムービーであり、2人は旅の先々で、様々な人たちの手助けによって導かれていく。安易に悪役となる人物を設定しない新海監督の作風は今作にも引き継がれていて、特に今回は、全編にわたって温かな性善説が今まで以上に強く貫かれている。まるで、優しさや善意のバトンを繋ぐリレーのように、「いってきます」「いってらっしゃい」を繰り返しながら旅を進めていき、そして最後に2人は、鈴芽の故郷である東北へと辿り着く。

冒頭の回想シーン、および、時代設定や鈴芽の年齢が予め示唆していたように、鈴芽は、2011年の東日本大震災によって母親を亡くしている。物語のクライマックス、過去と現在と未来が繋がった「常世」で、鈴芽は、母親を亡くした事実を正しく受け入れられずにいる被災当時4才の自分自身と邂逅する。そして、これまでの人生とこの場所に至るまでの旅路を振り返りながら、かつての自分自身に懸命に語りかける。

たとえ、どれだけ悲しい出来事があっても、明日からも「あなた」の人生は続いていく。笑ったり泣いたりしながら、そして、たくさんの人たちの愛に支えられながら、その続いていく日々を「あなた」は逞しく生きていく。たとえこの先、どれだけの不条理な悲しみが待ち受けていようとも、「あなた」は強く生きていける。

そして、最後に彼女は、過去の自分と今の自分、つまり「私たち」に向けて、こう語りかける。

「あなたは、光の中で大人になっていく。」

この言葉を自分自身に届けることで、鈴芽は、3.11以降に生きてきた12年間の日々そのものが、自らにとっての眩い肯定性となっていたことに気付く。たくさんの温かな光の中で成長してきた今の自分が、過去の自分にとっての希望になることに気付く。他の誰かからではなく、自分自身の深い確信をもって届けられるからこそ、この言葉は「私たち」の心に深く響いたのだと思う。


私たちは、光の中で生きている。そして、これから先も光の中で生きていく。今作は、鈴芽の物語であると同時に、この混迷の日々を、そして「あの日」の続きを生きる私たち観客一人ひとりの物語でもある。たくさんの温かな光の中で生きてきた日々には、これから生きていく日々には、何よりも輝かしくて深い意義がある。たとえそれが、どれだけ綺麗事や理想論だと言われたとしても、今作は、光のように溢れる不条理な愛で私たちを包み込んでくれる。不条理な悲しみに立ち向かうことができるのは、不条理な愛しかない。改めて、そう強く思う。

この映画は、新海監督が送り届ける「大丈夫」という実感と共に、この先いくつもの時代を超えて愛され続けていくだろう。そしてその過程で、きっと数え切れないほど多くの人たちの人生を救っていくはずだ。新海監督の「集大成にして最高傑作」である今作には、その眩い可能性が確かに秘められていると思う。




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