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コスメは語りはじめたVol.2「エイジングケアコスメの神秘性」

アンチエイジング?エイジングケア?

つやちゃん(以下つや):前回は第一回目ということで、「コスメとファッション」というテーマから始めてみました。今回は季節的にも冬真っただ中ということで、「エイジングケア」でいきましょう。コスメ、とりわけスキンケアを考える上で非常に重要なテーマです。マリコムさんは、エイジングケアという表現はなじみがありますか?普段から使っている言葉でしょうか。

マリコム(以下コム):よく使いますよ。商品名に含まれている場合も多いですしね。私がそのような対象年齢になる以前はアンチエイジングという言葉だった気がしますが、今はエイジングケアと穏やかな表現になりましたよね。

つや:そうですね。元々、アンチエイジングという言葉はコスメ業界が新しいジャンル名として使っていたものの、薬機法の規制で使えなくなったわけですよね。加齢に逆らって若返らせると謳うのは化粧品の効果効能外だと。そこから、法的対応によってエイジングケアという言葉を使わざるを得なくなった。エイジングケアに「年齢に応じたお手入れ」という注釈をつけることで逃げることになりましたね。ただ、やむなく強制された「アンチエイジング」から「エイジングケア」への転換というのが、その後の世の中の変化を見るにむしろ良かったのではないかと思います。なぜなら、「アンチエイジングとか言って抗うのはカッコ悪いよ」という価値観が一部で顕在化しはじめた。もちろん、そう言いながらも多くの人がアンチエイジングを目指していたりもするわけで、そこには本音と建前の重層的な構造が隠れているとは思います。でもそういったことも全部ひっくるめたうえで、それでも「アンチエイジング」というのは窮屈な表現だと思う。やはり、使えなくなって良かったと思うんです。

コム:私も概ね同意します。エイジングは抗う抗わないにかかわらず訪れるものですので、その訪れを無視している時点で、思考としては未熟だと感じます。ただ、「エイジングに抗うことができる」というファンタジーを前提としているところは興味深い。ファンタジーが成就しなかったのは、単に薬機法という制度のせいなんですかね?死や、その他のきっかけによって、各々にファンタジーが成就しなかった経緯があると思うので、みんなどんな時にポキっと心が折れたんだろう…ということが気になります。

つや:まだ高機能コスメというものが出てくる前の時代から、人類はコスメのサイエンスやテクノロジーの進化に夢を抱いていたわけですよね。「化粧品の成分は夢でできている」とか言いながら、なんだかんだそこに「永遠の若々しさ」みたいな願いを持っていた。でも、そこに黒船として現れたのが美容医療だった。なんとなく、そこで一度ファンタジーが成就しないかもしれないということを感じてしまった気はします。ただ、最近はそれを前提としたうえで、いかに美容医療とエイジングケアコスメを併用し加齢に抗っていくか、という発想も出てきていますね。美容医療を敵視するのではなく共存させていこうと。

コム:アンチエイジングという言葉が未熟だったにせよ、そこに現れていた「老いたくない」という感情は無視できないとも思います。老いは幼と似て、一人であれもこれもはできない状態にありますから、社会的に受け身の存在になることへの恐怖心はあるでしょう(実際にはもっと相互的な関係性があると思いますが)。そうした恐怖心への同情はさておき、恐怖の原因を考えようとすると、思い出すことがあるんですよ。e-fluxの創始者であるアントン・ヴィドクルの映像作品にエキストラ出演したことがあるのですが、彼は自作で扱っているロシア宇宙主義のことを「死は誤ったデザインである、と解いた左派思想だ」と解説していました。曰く、人種やジェンダーなどにかかわらず死なないことが重要であり、よって万人万物が蘇るべきなのだと。でも全ての生物が蘇ってしまうと地球上に土地が足りないので(笑)、宇宙に出ていく必要があるらしいです。ロシアのような大きな国が平等を説けば色々と疑問や矛盾が出てきますが、とにかく壮大な思想であり、ゆえにむしろ当時のあらゆる不平等が想像できます。「アンチエイジング」は、もちろん規模は異なるでしょうが、そのファンタジーの裏に社会的不平等に基づく悲痛な叫び、あるいは止まらない欲望といったものが想起されるので、ある意味必然のように出てきた言葉なのかなとも思います。

つや:容姿の老化が早い/遅いというのは考え方によっては不平等なわけで、アンチエイジング技術とはむしろ平等性を目指すためのテクノロジー革新という考え方もできるのかもしれないですね。なるほど、そういった社会規模まで広げてアンチエイジングを捉えるとまた新たな解釈が生まれてくる。cosmeticの語源であるkosmosは宇宙、ひいては調和や秩序といった概念を含んでいて、つまり化粧という行為は「美的秩序を整えていくこと」という説明ができると思いますが、そのあたりともつながる話かもしれません。

コム:cosmeticの語源を初めて知りました!調和や秩序として美と宇宙が語られるとは納得です。

つや:ところで、私は先ほどのマリコムさんの話を聞いていて、人類がアンチエイジングに惹かれる理由を「死がこわいから」と説明されると納得がいくなと感じました。というのも、「エイジングに抗った顔でいたい」という価値観がさも当たり前のように信じられている風潮がありますが、それは本当に私たちの根底にある感情なのだろうか?という疑問があるんですよ。若々しい顔でいたいという気持ちはそれによって生まれる副次的なメリットを享受したいがためにあるだけで、本来的な意味で「若々しい顔でいたい」という欲望が私たちの中にあるんだろうか。暗黙にある社会通念上そこから生まれるメリットに引っ張られて沸いてきているだけの感情であって、むしろそれ以上に強いのは、結局のところ死に対する禁忌であり、死がこわいからアンチエイジングに惹かれるのではないでしょうか。

コム:死やエイジングのイメージはどこか貧困というか、つやちゃんが禁忌と仰ったとおり、どちらもなるべく忌避したい退行や不浄として捉えられている側面があると思います。ふと思い出しましたが、古代中国では「明器」という焼きものの埋葬品があって、それが笑っちゃうくらい賑々しいんですよ。明器は、家畜や井戸や家屋などの生活に関するものを手のひらサイズにしたミニチュアで、集めて置くとシルバニアファミリーみたいにかわいいです。それもそのはず、故人が死後も生活に困らないように…と考えて作られたのが明器なので、おままごとの道具のように見えるのは当然なんですね。生前と変わらない生活が死後にも続いているなんて発想は、「安らかにお眠りください」といった鎮魂の態度とは正反対です。ちょっとうるさいくらい(笑)。でも死をポジティブに、そして具体的に捉えていますよね。もちろん死生観は時代や地域によって様々であり、そこにはそれなりの背景だってあると思いますが、明器の賑わいを思うと、死が禁忌的であるのは寂しいことのように感じられます。でも、禁忌的だからこそアンチエイジングは生まれたと言える。

つや:死をいかに捉えるかというのは重要な観点だと思う。保湿スキンケアの最も重要な役目はバリア機能であって、水分を与えたり水分が逃げるのを防いだりしているわけですよね。人は体内から水分が奪われると死んでしまうと。そう考えると、エイジングケアの原点であり前身でもある保湿ケアとは「水分といかに戦うか」というテーマでの競争であり、それは根本的に人の死にかかわることです。一方で、保湿を進化させて行き着いたアンチエイジングとは死に対するアンチテーゼとして生まれたもの。この、保湿から始まりスキンケアにたどり着く一連の流れは、死をいかに解釈するかという点でコスメの神髄であると思います。つまり、死に対するある種の批評として機能している。

コム:めちゃくちゃいい話ですね。死に対する批評としてスキンケアを捉えるなら、たとえば水分を多く含むことのできるヒアルロン酸は死に対して牛歩戦略をとっているし、あるいは化粧水の前に使用する導入美容液はそれ単体では自立しない装飾のようなものでしょうか。エイジングと言えば光老化が浮かびますが、光も肌から水分を奪い、そのダメージによって老化を促進する側面もありますから、いかに水がエイジングケアを司っているかがわかりますね。

エイジングケアとは内に・深部に向かうもの

つや:さっきさらっと言ってしまいましたが、そもそもエイジングケアというものが元をたどると「単なる保湿である」というのはすごいことじゃないですか?いや、むしろ、薬機法を前提とした化粧品の法的な効果効能に沿って言えば、2017年にシワ改善の認可が降りるまで、エイジングケアというのはイコール保湿を指していたに近い(笑)。つまり、約20年間に渡り、単純に保湿することを私たちはエイジングケアと称して何か全く別の先進的なものとして捉えていたわけです。保湿というのは本来ヒアルロン酸やセラミドで水分を与えて乾燥した肌を柔らかくする行為だと思いますが、スキンケアの基本中の基本である「柔らかくすること=保湿」を徹底して追求していくことで全く新しい別の概念が生まれてきたということですよね。型を極めたうえで過剰性を追求し新たなものを生み出すというのは、コスメ以外でもあらゆる領域に共通して見られる現象です。私が普段主たる研究領域としているポップミュージックでたとえるならば、ロックの基本である「ただのギターリフ」をどんどんエクストリーム化することで、メタルやハードコアといった新しいジャンルを生み出していったのと近い。コスメデコルテのモイスチュアリポソームが昨年リポソームアドバンストリペアセラムにリニューアルしましたが、あれって明確に保湿からエイジングケアに進化しました、という見せ方だった。「新・多重奏バイオリポソーム」というなんだかムズカシイ理論を謳っていますが、つまりはバイオリポソームを多重に重ねることでエクストリーム化させていると。結果、保湿を表す「モイスチュア」というワードが外れてしまい、今まで使っていた「モイリポ」という商品略称が使えなくなってしまいましたけど(笑)。

コム:確かに保湿のエクストリーム化ですよね。一般的に、過剰性を追求すると一方で反発が出ることがままあると思いますが、その辺りはいかが思われますか?SNSでは不定期にワセリン信仰派閥が浮上しては美容皮膚科医や専門家にやんわりと否定される大喜利が繰り返されていますが(ワセリンが悪いわけではないですよ)、個人的な感覚ではそうした美容ミニマリストも昨今では減りつつあるように見受けられます。オールインワンやBB/CCクリームなどの「複数の工程がこれ1本で済む」といった多機能コスメの商品数もやや減少傾向にある気がしますが。

つや:美容ミニマリストもだし、オーガニックコスメ派閥とかも一時期まであんなに増えていたのにちょっと最近は落ち着いた感じですよね。テクノロジーやサイエンスへの肯定・否定は常に前時代への反動として交互にそのトレンドを繰り返すのかもしれません。ただ、そんな中でずっと変わらない一つに美容ジャーナリズムというものがあります。毎年のベストコスメのラインナップを見たら分かる通り、美容専門誌を中心とするメディアは基本的にサイエンスやテクノロジーの進化とともにその歴史を歩んできています。SNSの声は、そういった既存の価値観に対するカウンターとして発せられているところもあるんでしょうね。そういった、美容誌とSNSの違いというのも興味深い。私はどちらかというと美容誌で育ってきた人ですが、こうやって対話しているとマリコムさんはSNSでコスメ知識を培われてきた人、という印象があります。

コム:そうですね、YouTubeとTwitter、ネット検索、あとはドラッグストアなどの現地が私の情報源です。10年ほど前もスキンケア、特にデパコスにハマっていた時期があり、その頃はVOCEなど買って読んでいたのですが、このままだと破産すると思って一旦足を洗いました(笑)。ところがコロナ禍の在宅勤務中、運動不足解消のために徒歩でドラッグストアに通いはじめたことがきっかけで、再燃してしまったんです。ドラッグストアでは、ひたすら成分表とにらめっこをしながら、スマホで成分を検索していました。そこから先の情報源はYouTubeとTwitterですね。SNSも基本的にはインフルエンサーの宣伝力がものを言いがちな世界ではありますが、仰る通りたまに美容誌をはじめとするジャーナリズムのカウンターとして機能することも見受けられます。美容誌も広告と密接に結びついているからか、製品の紹介にページが裂かれることが多いと思いますが、私がTwitterで美容垢を作った時は、Twitter内ではとある方の提唱した「ベビーオイル洗顔」が流行していました。「ベビーオイル洗顔」は私自身は取り入れなかったものの、至ってシンプルかつ理に適ったスキンケア法で、たくさんの製品を使って肌負担を増やすことをきらう傾向にあると思います。これは結果的には、どんどん製品を売りたい広告的な発想に対してのカウンター的な位置付けとしても捉えられるかなと。

つや:なるほど。コスメに限らず、どの領域も既存のジャーナリズムとSNSは同じような構図にありそうですよね。私がいつも興味深く思っている美容誌とエイジングケアの関係でいうと、どちらも「内に向かっていく」んですよ。エイジングケアは、保湿成分を角層に届けるということでは飽きたらずに、美容成分を真皮・細胞までデリバリーすることを標榜してきた。エイジングケアとは「内に・深部に」向かうわけです。それって、エイジングケアはじめスキンケアにまつわる姿勢が、美容に対し常にコツコツと努力する価値観をともにしてきた歴史とも共通していると思う。特にその価値観を啓蒙してきたのが美容誌、中でも最も実売数の多い『美的』ですね。一時期ビューテリジェンスといった言葉が出てきた当時、研究者の米澤泉さんは現代女性にとって美容が教養の一つになってきていることを指摘しました(『コスメの時代』勁草書房)。似たところで言うと、美容誌を中心としたスキンケア文化には君島十和子や神崎恵など多くの美容家による格言めいたものが拝められてきたという歴史もあります。つまり、エイジングケアというのはそのスタンスという点においても、教養という「内に・精神に」向かう。そういった価値観はSNSでも散見されますが、『美的』を中心とした美容誌が作ってきたところも大きいと思う。実際、『美的』はコスメだけでなく食や睡眠などの生活習慣から、つまり内側から美容を提案するような発信も多くしてきていますね。そのあたりから考えると、前回の対談で出た「空気をまとうファッション、肌と親密なコスメ」という図式においてエイジングケアとは最も内側にあり、ファッションやメイクから最も遠いものであると言える。

コム:であれば、やはりエイジングケアないしスキンケア、あるいは美容誌が「内に・深部に」何をイメージしているのかが重要ですよね。何がイメージされるか、と言っても良いかもしれません。指向した先にあるものが何かを問われている気がします。美容誌のくだりで教養や精神といった言葉が出てきましたが、これをエイジングと重ねると「成熟」という言葉が浮かんでくるような気がします。多分にポジティブな響きのある言葉ですが、場合によってはパターナリスティックな社会の要請に応える受動的な変態にもなりえる。考え方によってはそれで良いというか、そうとしかなりえないのかもしれませんが、とにかくこうした価値観の先導の可能性があることは美容に限らずどの分野のジャーナリズムにも言えそうですね。


ドゥ・ラ・メールとは、一体何なのか?

つや:何がイメージされるか、というのは難しいですね。その点では、ファッション誌と比較しても美容誌はけっこう保守的な世界なので、掘っていってもあまり示唆的なものは出てこないかもしれません。「美は内面に存在する」という価値観は、たとえばオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』からいわゆる「オードリー・ヘップバーンの名言」みたいなものに至るまで古今東西で強固なものですね。でも、エイジングケアが死に対する批評であるならば、ただのお手入れがどんどん飛躍して内面=思想や哲学といったようなものにまで及んでいくのは当然の帰結なのかもしれない。メイク品とはまた異なる意味で、スキンケアってどこかしら神秘性をまとっているし魔術的なものなので。マリコムさんの使っているエイジングケア品でそういった神秘や魔術といったものを彷彿させるアイテムはありますか?

コム:ドゥ・ラ・メールのクリームですね。と言っても、実は一度も使ったことがありません(笑)。巷では散々伝説のように語り継がれてきたクリームですが、なのに実際に使用しているという人に出会ったことはありません。あの処方はごく一部の関係者しか知り得ない超機密情報だそうです。HPに全成分の記載こそありますが、見ても何もわかりませんよ。私は成分表を見れば、その製品が何を目指していて、そのブランドの中でどういう立ち位置にあるのかを大体予測できるのですが、ドゥ・ラ・メールのクリームが何なのかはサッパリわかりません。いったい何がどうすごいのかを確かめてみたいのですが、とにかく高いので気軽な気持ちでは買えない。だからこのクリームについて、考えたり想像したりするしかない。スキンケア好きにとって、老舗ドゥ・ラ・メールのクリームが醸し出しているこの不穏な魅惑は、たとえば「ブランディングがうまい」といった言葉では割り切れないものがあるんです。平兼盛の歌「みちのくの安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」を思い出しますね。このクリームは鬼です。伝聞であるがゆえに満ち満ちていく畏怖や欲望や猜疑、といったものがうかがえるクリームです。

つや:ドゥラメールの謎めいた神秘性、めちゃくちゃ分かりますね。私の認識ではどちらかというと中国市場に対してはブランディングやプロモーションに注力していて、日本では「伝説・逸話作り」みたいなところで突っ走っている印象です。開発中の博士の爆発事故がきっかけで開発されたとか、NASAがうんぬんとか。SK-Ⅱの杜氏の手の話や、ココ・シャネルのエピソードみたいなものに近い。それを伝説・逸話として醸成させつつ、いざテクノロジーや処方の話になるとふわふわしすぎていて何を言っているのか全然分からない。空っぽだと思う(笑)。でも、私はそれは称賛の意味で言っているし、本当に凄いと思うんですよ。極端な話、文章の中身は何を言っても入れ替え可能であり、そこに何かミステリアスでラグジュアリーな雰囲気を匂わせる構造のみがあるという点において、モードの語りに近いですよね。ランコムのジェニフィックとかも同様ですが。ちなみに、魔術的という側面で歴史をさかのぼると、そもそもエイジングケアの原点である保湿ローションはそれを「魔法の水」のように称するところから始まっています。あのヘチマコロンの主成分であるヘチマ水が昔から「美人水」と呼ばれていたり、日本初のヒットしたスキンケア商品と言われている桃谷順天館のローション(1885年)は「美顔水」という名前だったり。しかもそれらがなんだか魔術的な容器に入って売られていた。ニベアクリームがヒットする海外と違って、日本人は「魔法の水」としてのローションにずっと惹かれてきていますよね。コーセーの雪肌精のフォントとかなんかオカルトっぽいじゃないですか(笑)。保湿ローションからエイジングケアアイテムに至るまで、私たちはずっと魔法を買ってきたんですよ。

コム:エイジングケアには時間を止めたり巻き戻したりする魔法使いが求められているのかもしれませんね。たとえば漫画やアニメや小説などではループものなんかもあって、物語の型にはさらなる変化が続々と見られるわけですが、比較すると身体に関する時間の感覚には半ば時代に取り残されたような遅さがあります。いくら中身や外見に最新のテクノロジーを取り入れようとも、前回の対談で話題に上がった通りコスメは肌と親密であるから、人体の時間に寄り添うような在り方しかできない。魔法になる瞬間を待ち続けている、そういう「待ち」の時間がスキンケアにはあるような気がしますね。

つや:そうそう、だから美容医療とやはり対極にあるし、スキンケアやエイジングケアはじれったいものなんですよね。逆に、マリコムさん愛用のエイジングケア品ですぐに効果を感じるものはありますか?

コム:ここではやはりレチノール(ビタミンA)に触れないわけに行かないと思うので、レチノール製品をひとつだけ。MuradのRetinol Youth Renewal Serumです。Muradはアメリカの皮膚科医が開発したスキンケアで、この美容液には肌のターンオーバーを促進する複数種のレチノールが比較的高配合されています。日本では皮剥けなどの副作用を恐れてか、レチノールを高配合しているスキンケアにはなかなかお目にかかれませんので、個人輸入しています。キメ細かくなって、肌荒れしづらくなりますし、何よりくすみ抜けがすごい。しばらく使用を控えた後で久しぶりに使うと、1回で効果を実感します。こうした効果をもたらしているのは、処方や成分だけではありません。もう一つの要因として容器があります。レチノールは劣化しやすく、新鮮なまま肌にデリバリーするためには容器の工夫が必須とされているので、Muradの美容液にはエアレスポンプが採用されています。日本でも資生堂がレチノールによるシワ改善の特許を取得してエリクシールで製品化しましたが、あれは何の特許だったかと言うと、容器の特許なんですよね。時間を止めたいという計らいは、容器にも現れている。そんな一例ですね。

つや:なるほど。レチノールは私は刺激が強すぎるんですよね。ただでさえ反応が大きいので、日本国内の基準値を超えた海外レチノールとかこわくて絶対使えない!(苦笑)でも容器にもエイジングケアの計らいが現れているというのはすごく納得です。というのも、個人的に提唱している「保湿が終わったのは1995年論」というのがあって、それに容器は深く関係しているんですよ。具体的には、1995年に発売された資生堂の肌水のことを指しています。肌水は、「素肌としてのミネラルウォーター」として斬新なミネラル水のボトルを模した容器とともに大ヒットした。この時、魔法の水としてのローションは熾烈な高機能戦争を経たうえで、ただの水に戻ったわけです。テクノロジーの進化が一周したと。そこに容器デザインも密接に関係している。「魔法の水としてのスキンケア」が終焉し、その後本格的なエイジングケアの時代が始まります。90年代終わりから2000年頭にかけて、資生堂のクレ・ド・ポー ボーテやポーラのB.Aがプレゼンスを高めはじめた。

コム:肌水、使っていました!懐かしいです。あれが大ヒットしたのは、デザインに加えて、使いやすいスプレー容器であったことも大きく関係しているでしょうね。美術でも、絵画の歴史は絵の具の歴史だという観点がありますが、エイジングケアないしコスメを容器のプロダクト史として捉えていく見方もまた面白そうです。さて、エイジングケア元年にまで話が遡ったところで、今回はお開きにしましょう。次回のテーマは「美白」です。白をはじめとする「色」についての話を深掘りして行きましょうか。ちょうど春に近づいて、日焼け止めの新作が発売される頃にリリースとなるかもしれませんね。



all photos by maricom

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