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「お断り」の経験値(前編)

断ることが苦手なのは、昔からだった。
一番最初の記憶は、幼稚園の頃。
友だちのゆうこちゃんが、トイレの芳香ビーズを小さな千代紙にくるんで持ってきた。
これ、あげる
小さくて丸い芳香ビーズは透き通った水色をしていて、鼻を近づけると爽やかな香りがした。絵本に出てくる水晶のような、とても尊いものに見えた。
大切に通園バッグに入れて帰り、ボール紙でできた宝箱にそっとしまった。そして時折取り出して、目をすがめて眺めたり、クンクン嗅いでうっとりした。

私の喜びように気をよくしたのか、ゆうこちゃんはそれからも度々芳香ビーズを包んでくれるようになった。
ピンク、黄色、黄緑。
いろいろな色が揃っていくのが、初めは嬉しかった。色が違うと匂いも違って、目をつぶって嗅ぎ分けて遊んだりするのも楽しかった。

けれど私は突然、飽きてしまった。
園内で飼われているオウムや亀などの小動物に心を奪われてしまったからである。
そうとも知らないゆうこちゃんは、せっせと自宅のトイレから芳香ビーズをかすめ取り、綺麗な紙に包んでこそこそと持ってきてくれる。
ただ一言「もういらないよ、ありがとうね」と言えばいいだけなのに、どうしてもそれが言えなかった。
無邪気なゆうこちゃんを騙しているようで気持ちも落ち着かないし、ゆうこちゃんの家のトイレのためにもそろそろ断るべきだとわかっていたのに。
どうしても言い出す勇気が出せないまま、彼女が飽きるまで私は罪悪感を抱きながら芳香ビーズをもらい続けた。
ゆうこちゃんからもらった宝物はコロコロクリリンの小さなケースに入って、今も私の実家にある。


もう少し年をとると、事態はもう少し深刻になった。
渋谷のおむすび屋で働いていた頃のことだ。
新しく開店した美容外科に駅のロータリーで勧誘され、断りきれずに脇の脱毛をすることになった。

脇が出るような服なんてほとんど持っていなかったのに。
無料の体験分だけ脱毛してもらって、その後はバックれてしまおうと思っていたのに。

東京の20代女性の80パーセント以上が脱毛してるわよ」と脅かされて、20パーセント弱に入っていることが俄かに怖くなって、結局2万円くらい払って一年弱くらい通った。
何度か通ったあたりで、「脛や腕もやらない?楽になるよ〜」「VIO脱毛すれば彼氏喜ぶよぉ」と言われた。

脇がツルツルになることは、思ったより悪くなかった。
袖のゆるいシャツを着て腕が丸出しになってもよれた剛毛が剥き出しになる心配がないというのは、思いのほか快適だった。
けれど脱毛してよかったことは、そのくらいしかない。

せっかく脇ツル人間に生まれ変わったのに、イケメンに言い寄られるようなことも、積極的な性格に生まれ変わるようなこともなかった。
YouTubeの脱毛広告でよく見られる「モテない毛深い私だけれど……脱毛したら人生が一気にうまく回り出したの!」なんて展開は、しょせん漫画の中だけの話なのだ。

人生はそれほど単純ではないし、脱毛の有無で心変わりするような男性とはそもそも付き合わない方がいいのでは、とも思う。
もしも脱毛していないことを恋人に揶揄されるようなことがあったら、私はすばやく相手に飛びかかり頭髪を毟り尽くすだろう。

そんな思いを秘めて彼氏に脇脱毛の話をしたら「あんたが脇なら、俺はヒゲにしようかな」とヒゲ脱毛に通い始めた。謎の理屈である。
「あのバチンっていう痛みがさぁ…」と共通の話題で盛り上がれるようになったことは嬉しいけれど。

そんなわけで追加で脛や腕、VIOの脱毛を勧められた時、私は「このまんま、毛が生えたままでいいです」と断った。
かなり勇気を出したつもりだったのだが、担当さんの反応は「あらぁ、その気になったら言ってね〜」とあっさりしたものだった。
あれっ? そんな軽いノリだったの?
と肩透かしを食う。
私はこれまで、不必要なものをいらないと言うことにすごく気力を費やしてきたけれど。
頑張って断ったあとでも申し訳ないことしたなぁとキリキリ反省して疲弊してきたのだけれど。
案外みんな、そこまで気にしていないのかもしれない。
なーんだ。

そう気づいてから、以前より少し気楽に断ることができるようになった。
けれども、それはあくまで向こうもそこまでこちらに期待していない勧誘の場合。
向こうが当然受けてもらえるものと信じているお願いを断るのは、いまだにかなり気が重いし、断れずにズルズルと引き受けて後悔することも多い。

断ることと、多少無理してでも相手の願いを叶えること。
結局どちらを取ってもストレスにはなるのだけれど、どちらかというと私は断ることの方が心理的な負担が大きい。
それは相手の押しの強さだけではなく、私の断る経験値が足りていないせいでもあるのかもしれない。

そんなこんなでストレスを溜めた結果が、血管年齢80歳(フルーツ牛乳摂取後は60歳)である。
次の土曜日、私はよぼよぼの血管年齢を突きつけてきたフィットネスクラブで、無料体験をする。
血管年齢にショックを受けた状態では、明るいお姉さんの勧める無料体験を断ることができなかったのだ。

出会いこそ最悪だったものの、詳細な体力測定をしてもらうことや身体の悩みに合わせた体操を教えてもらえるのはけっこう楽しみだ。
だから今晩は体験後に飲むためのちょっといいビールを買い、公園で一人、逆上がりをしてはしゃいだ。
両膝を鉄棒にかけてぶらぶら揺れていたらワンカップを持ったおじさんがベンチに座りにきて、ギョッとした顔で帰っていった。悪いことをしてしまった。

けれどテンションが高まる一方で、あくまでフィットネスは無料体験までにしておこうと固く心に誓っていた。
申し訳ないけれど、お金は大事だ。
それなら体験に勧誘された時点で断っておけよという話ではあるけれど。
断れなかったのだから、仕方がない。
フィットネスクラブの店員さんも、あまり私の入会に期待してくれていないといいなと思う。
そんな邪な希望を抱きながら、熱心にブランコを漕ぎ続けた。
梅雨にしては、清々しい夜だった。


(後編につづく)


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