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大人の証

実家を出てから早三年、いつのまにやら手土産なしには帰れなくなっていた。

帰省するたびに綺麗に片付けられていく、自分の寝室。リサイクル用の紙袋に詰め込まれた、洋服や小物。
それらを見下ろすたびに、私の拠点はもうここではないのだと実感する。
私の生活の軸は一人暮らしのアパートに移っており、彼らは私不在の生活にすっかり慣れている。

家を出たばかりの頃は自分がこの家で暮らした痕跡が帰省するたびに薄れていくことが少し寂しかったけれど、徐々にそんな感慨にふけることも少なくなった。
私が実家に手ぶらで帰れなくなったのは、それとほぼ同時期のような気がする。
それは自分が自立した大人になった証のようで、ちょっと誇らしくもあったのだけれど。
ふと立ち止まって考えると、どうもそれだけでもないように思う。

私が普段家族に買って帰る手土産は、己の自立心を示せるような立派なものでも、高価なものでもない。
近所の小ぶりなお団子や芋餡の和菓子、バターたっぷりのマドレーヌなど、家族五人分で1000円するかしないか程度の土産である。

でも、おいしい。
だから、家族に食べてほしい。
そして今住んでいる町にはこんなにおいしいお菓子があると、素敵な町なのだと、安心してほしい。

私のお土産は「大人アピール」ではなくて、散々心配をかけまくってきた家族への、ささやかなお礼と報告なのかもしれない。
そんな菓子をいつも嬉しそうに頬張ってくれる家族には、いつかちゃんとお礼を言わなきゃなぁと思う。


そんなことを考えながら、たらふく夕飯を食べてお酒も飲んだ私は、近所をぶらぶら歩いていた。
自動車のライトが煌々と流れる大通りを闊歩して、ひときわ輝くディスカウントショップに飛び込んだ。

久しく目にしていなかった「アーモンドクッキー」と再会したのは、その時だった。
このクッキーは、私が物心ついた時にはすでに近所のドラッグストアに並んでいた、おそらくかなりのロングセラー商品である。
フロランタン風の薄いキャラメルクッキーと、チョコクッキーとバタークッキーの三種類。
全部で12枚。
お値段、200円。

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値段もパッケージも、子どもの頃からさほど変わっていないようだった。
私はこのクッキーがすごく好きで、でもけっこう怖かった。

このクッキーはおいしい。
ほんのりと鼻を抜けるバター感と、平たいアーモンドの香ばしさ。
一枚ずつ包装されているから、一気にばくばく食べるわけにはいかない。はやる気持ちを抑えて一枚をちびちびと前歯で齧ると、なんだか海外小説の憐れな主人公の幸福な瞬間みたいで、妙に気分が高揚した。

200円という価格は、当時20円の占いチョコとか60円のチョコボールばかり食べていた私にとってはべらぼうな金額だった。
けれどそんな私にも、ささやかなチャンスはあった。小学生の頃、親の買い物についていくと一人100円まで菓子を買ってもらえるという家庭のルールがあったのだ。
私は時々そのお菓子権を一回貯めて、アーモンドクッキーを買ってもらっていた。
とはいえ、弟たちが菓子を選んでいる時に自分は我慢するというのは正直かなり難しい。
結局おしゃぶり昆布やマーブルチョコの誘惑に敗れることも多く、実際にアーモンドクッキーを買ってもらった回数はさほど多くないように思う。

パッケージのおどろおどろしさも、ちょっと尻込みしてしまう一因だった。
黒い紙箱に赤く踊る、「おいしい」の四文字。
なんだかお菓子の家で手招きしている魔女と同じ匂いがする。

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怖いのはそれだけではない。
箱の側面の「体での吸収が良いと言われる卵の殻から作ったカルシウムを入れて焼き上げました」という説明書きに初めて気がついた時は、恐怖のあまり息を呑んだ。

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卵の殻をクッキーに入れる。
それって、食べものとしてありなのか?
母の作る卵焼きには、時々殻が入っているけど。
あのジャリっとした歯ざわりを思い出すだけで、身の毛がよだつ。
それに、卵の殻にはサルモネラ菌が付着しているのに。
亀を飼っていた私は、やたらと菌に詳しかった。

すんごくおいしいけど、怖い。
かなり怪しいけど、魅力的。
食べたいけど、食べたくない。

そんな複雑さを持ったお菓子は、当時の私の周りにはこのクッキーくらいしかなかった。
かくして強烈な印象を心に植えつけられた私は、大きくなってからもこのクッキーを見かけると心がざわついた。

販売店が限られているらしいところも、怪しい魅力の一つである。
これまで私はこのクッキーを、近所のドラッグストアと高校の付近の小さな売店、今住んでいる家の近くのディスカウントショップくらいでしか見かけたことがない。
この希少性の高さはいったいなんなんだ。
それゆえに視界に入った瞬間に買うか見逃すかの決断を迫ってくる、この圧力はなんなんだ。

酔っ払った私は、久しぶりにアーモンドクッキーを買うことにした。
黒地の箱に、目慣れた「おいしい」の文字。記憶のとおり、やっぱりちょっと血文字風だ。
そしてクッキーの写真部分が、少し浮き上がっている。ここにたまらなく高級感を感じて、何度も指をなぞらせた記憶がある。
箱を開けると写真の順番には並んでいなくて、そういえばそこも謎の一つだったなと思い出した。

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とりあえず一枚、フロランタン風のココ アマンドを齧る。
うわあ、懐かしい!やっぱりおいしい!
次はバター、次はチョコと続けて食べる。
おいしい。
おいしい!
変わらぬおいしさに安堵する。

それにしても、三枚一気に食べちゃうなんて……なんて大人なんだ!
子どもの頃の私に今の私を見せてあげたい!!
憧れのクッキーを貪るというあまりの大人感に、なんだかクラクラしてきた。あるいは、単に酔いが回ってきただけかもしれない。
ともかく次の帰省の時は、大人の証としてこのクッキーを持っていこうと固く誓った。
上がりきったテンションを少し落ち着けるべく箱を丹念に眺めたら、原材料などが書かれた側面に「株式会社おいしい」とあった。

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株式会社おいしい……?!

まさかの社名だった。
このクッキーは、たしかにおいしい。一人の人間にこれほどまでのインパクトを与えた時点で、この商品は大成功だと思う。
けれど……けれど、社名「おいしい」って、あまりにも直球すぎやしないだろうか。社長のメンタルは、いったいどうなっているんだろう。
大人になった私は、自腹でクッキーを買える財力も、一気に三枚食べる自由も手に入れた。
けれどアーモンドクッキーの謎は、相変わらず謎のまま。
おいしくも怪しい、懐かしのクッキーのままなのであった。

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