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つれづれつづり

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それぞれ、おのおの、つれづれにつづります。
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2019年2月の記事一覧

ピーク

自分の人生のピークはいつだっただろうか。 振り返れば自分の人生のピークは中学3年ごろだったかもしれない。 かといって、モテていたわけではなく。 お金がたくさんあったわけではなく。 じゃぁ、何か。それは、希望。 これからの人生に対して希望があった。 田舎の小童が中学に入って猛者達に揉まれる。 負けたらいけない、負けたら怒られる。 その一心で歯を食いしばって頑張った。 中学3年生になる頃には部活のおかげか体も大きくなって 満員電車でも自分の場所を踏ん張れるようになっていた。

両親とゲイ

ちょいと遅刻。 平成初期、平成10年の前までだろうか。 相変わらず生まれていない私。 何を綴ろうか。 私を構成する大きなもので、そして語らずにはいられない両親。 逃げてきたけれど人生のほとんどを共に過ごし育ててもらった故に、否定したくても似てしまっている。お金や時間のルーズさ、感情の振れ方、そして甘く弱い私。 家族について別で語ったこともあるけれど、私は家族が苦手。去年はとうとう飛び出して、逃げて、遂には果てまで来てしまった。随分と愛しい果てである。私はここで故郷で

早めの初恋

皆さんはいつからゲイだって自覚を持ち始めたのだろう。 私はわりと早くて、保育園の時から男の子が気になってたのを覚えている。 だから初恋も早かった。 小学生低学年のころから、ずっと仲良しの3人組がいて、その内の1人の事が好きだった。 かっちゃんって言うんだけど。 よくゲームとかいっぱい持ってて、家も大きくて、遊びに行くと絶対お菓子とジュース出てくる そんなヤツ周りに1人はいたよね? かっちゃんがまさにそれ。 しかも色白でパッチリ二重で髪の毛ぽやぽやのかわいい子。 「

平成初期

平成初期 平成2年〜10年くらいを目安に書いてみようと思う。 2歳〜10歳くらいか。あんまり覚えてないなー。 今振り返るとめちゃくちゃ幼くて恥ずかしくて呆れるようなこと言ったりやったりしてたなぁと思う。子供だったから仕方ないでしょって片付けていただきたい事だけど。 すげー泣いてた記憶もある。すげーくだらない事で。 でも当時は全部本気でいつも必死だったんだろうなぁ。 この期間で一番覚えていることは、兵庫県南部地震。 実際、平成7年1月17日午前5時46分の瞬間は寝てい

平成を振り返る Season2

前回は自分の生まれた頃の話をしました。2歳とかね。立ちションの話がメイン。 今回は平成初期(平成元年〜10年ぐらいの間)と設定し、つれづれ綴ろうと思います。 1988年〜1998年ぐらいでしょうか。2歳〜11歳ぐらいの頃の話をします。 BGMはこちら。不朽の名作、MOTHER2より「オネットのテーマ」。 私は山に囲まれた県でのびのびと育ちました。 5人家族、父、母、姉、兄、私という構成。割と一般的な家庭だったと思います。 小さい頃から何故か比較的コミュ力が高く、ひょうき

ナニモノでもないワタシ

平成初期。平成8年。21歳。 自分がナニモノなのかわからないくせに「若さ」という一過性の武器をこれでもかと振り回し自分を中心に世界が回っているというただただ根拠のない自信を持った、いまのわたしが出会ったら絶対に友達になりたくないニンゲン それが21歳の頃のわたしだ わたしが『21歳のわたし』を擁護するとすれば、自分がナニモノなのかわからず闇の中を手探りで歩いていくことがただただ不安で不安で仕方なく、そちらの闇にはココロが向かないように気付かないようにひたすらキラキラした

ごめんね

よそで書いたこともあるので読んだことがある人いるかもしれない。 自分にとって平成初期の一番大きな出来事はこれだった。 ま、ありがちな話だんだけどさ。 ***************************************************** 中学校の同級生だった仲が良かった女の子がいて、卒業後もいつも一緒につるんでた。高校、大学時代はお互いに付き合ってる相手がいたりしながらも「男女の友情」を維持し続けていた。そして二人ともフリーの状態で社会人に。 俺はその

平成初期、性のめざめ

小学生・中学生と思春期を過ごした平成初期。 シャイでおとなしく容姿も平凡で、同窓会に出ても「えっと…誰だったっけ?」と言われてしまうような、クラスに沢山いるモブキャラの一人だったであろう自分。 そんな自分でも、人とは違った悩みを持ち始めたのが、小学生・中学生の頃でした。 ◇ 小学校に入学して程なく、バブルが崩壊した。 もちろん当時子供だった自分にはそんなことはまったく理解できていなかったけれど、思い返してみるとこの頃を境に、家族を取り巻く環境が少しずつ変わっていった気が

“ともだち”っていうルール

平成2年。 後になってそれは、後悔や失意、もしくは運良く、あるいは強かに難を逃れた者たちから渦中の者たちへの嘲笑を含みながら「バブル」と呼ばれる時代の只中に、中学2年生の僕はいた。とは言え、実際には既にその終焉へのスタートは切られていた。永遠の右肩上がりを皆が信じていた日経平均株価は前年の大納会を頂点に急激に下がり続け、この年の終わりには4割引の大セールとなっていた。 と、このような話は大人になってから知ったことだ。 一億総浮世離れな時代の只中にたまたま生きていても、ニキ

ベルフラワー

平成6年。 父の転勤で今までの土地から離れ、田舎の進学校で高校時代を過ごした。 国勢調査の回答がいつの間にか町内中に知れ渡っているような、なかなか忌まわしいタイプの田舎だ。住んでいた間、両親は大変だったそうだ。 高校生活では、同性からさらに具体的なアプローチを受けることもあったが、性に保守的だった自分は、部活が休みなら一緒に帰る、デートでは神社にお参りに行く程度にとどめていた。 なんで神社なんだ。他になんかあるだろ。よくもまあ、そんなデート先で納得してくれたものだと思う。今

平成個人史#2 成長編

 一か月というのは案外あっという間なもので、次に何を書こうかと考えている間に次の締め切りが来てしまいました。今回から平成初期・中期・後期・そして現在という括りでお話をさせていただきます。今回は平成初期。小学生頃のことです。  前回もお話した通り、私は男の子との遊び方を全く知りませんでした。小学校一、二年生くらいはまだ男女混ざって遊んでいても違和感はありませんが、三年生くらいになってくるとやはり男の子は男の子、女の子は女の子と明確に線引きをされるようになります。その線引きに漏

平成初期、あたしは幼児

平成初期。  僕は平成5年に生まれた。辺鄙な田舎。夏は涼しく冬は厳しい土地だった。父親と母親との恋愛はかなりの大恋愛だったと母の語り口から想像に難くはなかった。父親はシャイなのでさも面倒臭そうにそれを語っていた。本当の所は当時の本人達にしかわからない。ただ確かなのはそんな恋愛も結婚生活が長く続くか否かには関係が無いと言う事だ。父と母は平成の前半で離婚する事になる。  先の投稿で、僕は母親に似た恋愛のスタイルをしていると書いた。それだけではなく、物事の判断や捉え方、行動様式

「なんだったんだろう」

どーも計算が合わないなぁ…まずは前回の訂正からせねばなるまい。 公開後にあらためて確認(先にやれってのね)したら、就職したのは平成3年の4月らしい。つまり、平成元年はまだ学生だった。そして成人した年(完全に年齢バレ)でもある。 成人式といえば出席しなかったなぁ。ギリギリ数日前にスーツを買いに行き、しっかりトレンドを反映した足首が見える裾をひらひらさせながら腐れ縁の中学の同級生二人を拾って車で向かったのだけど、まーどいつもこいつも呼んでもなかなか家から出てこない。会場に着いた

平成元年、あたしはまだ糖

平成元年。  僕はまだ糖だった。それと同時にタンパク質でもあった。僕はまだ自然の一部だった。父親と母親とそれぞれが摂取するであろう、米や小麦や上白糖や牛や豚や鳥だった。デオキシリボ核酸として生を受けるのは確か着床の2日前。誕生日から逆算すると――これは止めておこう。ひどく下世話だ。  平成元年。僕が生まれる5年前。僕が生まれたのは1993年の1月。ちょうどその夏には「夏の日の1993」がリリースされた(はずだ。多分)。脱いだらチャーミングなんて抜かす男に愛される女が哀れで