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ベルフラワー

平成6年。

父の転勤で今までの土地から離れ、田舎の進学校で高校時代を過ごした。
国勢調査の回答がいつの間にか町内中に知れ渡っているような、なかなか忌まわしいタイプの田舎だ。住んでいた間、両親は大変だったそうだ。
高校生活では、同性からさらに具体的なアプローチを受けることもあったが、性に保守的だった自分は、部活が休みなら一緒に帰る、デートでは神社にお参りに行く程度にとどめていた。
なんで神社なんだ。他になんかあるだろ。よくもまあ、そんなデート先で納得してくれたものだと思う。今だったら、もっとときめく所を選ぶのに。

音楽の力も存分に借り、セクシャリティとどうにか折り合いをつけながら、受験勉強に励み、第一志望ではなかったものの、平成6年4月に大学に進学した。自然豊かな環境で、憧れの一人暮らしも始めた。 

内省的な高校時代を送った自分は、人間の内面に関する学問を選んだ。文系だが実験とレポートがとにかく多く、同学部の他の専攻からは「文学部 化学科」のように揶揄されたほどだ。
個別性の高い指導が要求されるため、定員は少数で、「この学問で対人援助をしたい」派と「この学問で人より優位に立ちたい」派に大きく分かれていたように思う。ここでは、前者の発想しかなかった自分のおめでたさも知った。
 
苦しかったのは、大学生の恋愛では性行為の要素が一段と大きくなることだ。
周囲が奥の院の秘仏まで辿り着いたことを口々に語る中、自分はいわば邪教徒で、プラトニックな部分すら口にするのはタブーだと痛感した。好みの女性像や性体験を尋ねられるという、自分にとっては「踏み絵」のような試練も続いた。自分が同性愛者とばれないように嘘をつく労力と、その罪悪感から、心的資源はますます消費され、学問をはじめとし、徐々に生きるのが疎かになっていった。

一方で、楽器は部活動を通じて続けていた。葛藤のぶつけどころとしては変わらず、さらに上達はした。ただ、当時の録音を聴くと、苦しみから逃避しようとする必死さ、痛々しさが感じられて少し辛くなる。
大学では、音楽を通じて得られた友人達が手を差し伸べてくれたが、その時には自分は既に自尊心を大幅に失っていた。

部活動のメンバーは、先輩後輩も含め優しく個性的な人たちだった。自分に彼女ができるよう応援してくれる彼らへの罪悪感は日々募り、大学3年生の時に、一部のメンバーにカミングアウトした。
反応は様々だったが肯定的で、「そのまま真剣に生きろ」と自分は受け取った。
戸惑った人もいただろうが、少なくとも表向きはこれまでと変わらずに接してくれたと思う。

当時のインターネットはまだまだ貧弱で、どうやって仲間を見つけたらいいのか、皆目見当もつかなかった。そんな中、彼女ができるよう自分を応援していた彼らは、今度は自分の居場所を作ろうと奮闘してくれた。
同級生のカップルが、高速道路のサービスエリアのゴミ箱に捨てられていたゲイ雑誌を「役に立つかもしれないから!」と拾ってきてくれたり、先輩が「今日の朝日新聞読むのよ!」と、セクシャルマイノリティへの理解を啓蒙する記事の存在を教えてくれたり、好意に気づいた友人が「腕枕くらいなら全然」と添い寝してくれたり。腕枕の先に至る夜があっても「まあ、お前ならいっか」と、相手はけろっとして笑っていた。
しかし、当時「罪悪感が服を着て歩いていた」ような自分。受容され、助けられたことよりも「異性愛者の友人達に無理をさせているのでは」という引け目が勝り、かえって葛藤が強まる結果となった。

学問は疎かにしていたと思うが、卒業はできた。
安定した仕事に繋げるためには大学院へ進学すべきだったが、大学院用の予算で、関心のある別の分野に進むことにした。一度実家に戻り、再び受験勉強に励む必要がある。

とにかく、元気がなかった。卒業式には出たが、ほとんど覚えていない。アパートに帰ると、ドアの前に、ゲイと知りながらも好意を寄せてくれていた女性からのプレゼントが置いてあった。ベルフラワーの小さな鉢植えに、小さな手紙が添えられていた。
「ふたつ買ったので、ひとつあげるね。日当たりの良い場所に置いてあげてください。〇〇くんもおひさまに当たって、元気出してね。卒業おめでとう」

ベルフラワーは4年くらいで枯れてしまったが、手紙は今も持っている。

平成6年から始まった大学生活。多くの優しい手が添えられていたのに、罪悪感は深さを極め、ただ足踏みをしていた。お礼すら言えていない人がいるのが、今も引っかかる。
のちのち、彼らの手が自分の背中を力強く押してくれることになるとは、当時は想像する余裕もなかった。

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