ジニャーナ・プラーナヤマ「呼吸の停止」

この記事では、以下の記事の「ヨーガ・ヴァーシシュタ」の引用部を、仏教にも関連させて解説を試みてみる。

では、努力せずに自然に流れる生気(呼吸)に耳を傾けてください。

まず、このプラーナヤマは、呼吸を通して心を制御するものであり、自然な呼吸を用いる。

見る(観る)とは能動的で、聞くとは受動的。
自然に流れる呼吸を、自然に起こる気づきによって制御する。
「感覚の制御」についての覚書

呼吸そのものを制御するのは初心者のためのものだ。呼吸を外的に、強制的に制御することで、心を追い込み、そうして、心は余裕を無くし彷徨うことができなくなる。
これは、プラーナヤマの準備として、思考を静めるためのものである。
思考を「止める」と「手放す」の違い

このヨーガ・ヴァーシシュタでも、「ハタ・ヨーガや禁欲生活などの暴力的な修練や、巡礼や儀式などで時間を無駄にしてはならない」とある。
強制的(暴力的)な外的な制御をしている限り、そのものを離れ、その基盤、根源へと探究することができない。

ここでのプラーナヤマは、真我実現のための直接的な修習となる。
ラマナ・マハルシはこのように言う。
「もしも呼吸を一心不乱に見守れば、気づきは自然にクンバカへと導かれる。これが、ジニャーナ・プラーナヤマである。」

仏教におけるプラーナヤマは、アーナーパーナ・サティと呼ばれ、仏典では最上の修習であると讃えられている。
また、このアーナーパーナ・サティは、思考が強い人(智慧の広い人など)に向いていると言われる。

プラーナの動きが外側で止まり、アパーナがまだ起こってこないとき、それは外的クンバカと呼ばれます。そしてアパーナが内側に流れて源に戻り、プラーナがまだハートから湧き起こってこないとき、それは内的クンバカと呼ばれます。

仏教の瞑想では、この外的なものを粗雑な呼吸、内的なものを微細な呼吸と呼ぶ。
四つの階層の呼吸

瞑想の初心者は、集中が深まり意識が微細になって、外的な呼吸から内的な呼吸へと認識が移るとき、呼吸を捉えることができなくなり、停止したと思いこんでしまうことがある。
このとき、空白(有分心)に落ち込むこともあり、悟ったと勘違いすることもあるようだ。
自然な呼吸の停止と心の解放

呼吸の完全な停止は、仏教での第四禅定もしくは、滅尽定によって起こる。
しかし、この(色界の)第四禅定は、外的な技工的なサマーディであり、ここでのプラーナヤーマが目指すところではない。
この外的な禅定は、強制的に心を止めるもので、いわば麻痺しているようなものだと言われる。

あるミャンマー人は、喜びの大きい第二禅定が好きで、一晩中瞑想していた。そして、禅定から出てくると、足の痛みでのたうち回ったという。
このように、それ自体が素晴らしい成果ではあるが、外的な、技工的な修練は一時的な結果しかもたらさない。

ちなみに、滅尽定は、聖者の四段階の「阿羅漢果」と「不還果」のどちらでも入定できる。
おそらくこれは「ニルヴィカルパ・サマーディ」のことだろう。

プラーナが動きをやめ、アパーナがまだ動き出す直前に、努力を要しないクンバカ(呼吸維持)が起こります。賢者はその瞬間を重要な状態と見なしてきました。呼吸が努力なしに静止したとき、それが至高の状態です。これが真我であり、純粋な無限の意識です。

ラマナ・マハルシは、多くの人は心のことを真我であると見ていると指摘している。
この呼吸が努力なしに(一時的に)静止していても、至高の状態とは限らない。
そこには、まず心がある。その心が純粋になり、霊的なハート(全体性)に溶け込むとき、真我が現れる。
真我はサマーディによってしか知られない。

ハートと心から不純性を消し去って、プラーナとアパーナに専心する人は、妄想から解放され、内なる目覚めに達し、為すべきことを為しながらも真我の中に安らいでます。

ラマナ・マハルシによると、ニルヴィカルパ・サマーディには種類がある。外的なものと内的なもの、そしてサハジャ(自然)なものだ。

ラーマクリシュナのように、普通はニルヴィカルパ・サマーディに入ると活動は停止するのだろう。このとき呼吸も完全に停止しているのだろう。
サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディでは活動は止まることはないと言われている。呼吸はどうなのかは分からない。呼吸していても、それに気づかないのかもしれない。

さらに、仏教では、滅尽定は禅定修行をしていなければ入れないとされ、阿羅漢果であっても滅尽定に入ることのない聖者もいる。

サマーディについては、様々な見解もあり、まだ理解しきれない。
なにより、私自身のいくつかの経験がどのサマーディなのかも正確に把握していないのだから。

もしプラーナとアパーナが合一する空間に到達するなら、その人はもはや不幸を体験することも再誕生することもありません。

私はプラーナとアパーナが動きを止めた、プラーナとアパーナの中間にある無限の意識に瞑想します。

一体「無限の意識」にどのように瞑想するのだろうか?そもそもその必要はないだろう。
そのため、プロセスとしては「純粋な心=真我=無限の意識」で問題ないのだろう。

この「合一」と「中間」は同じことを意味する。
始まりと終わりの合一によって、中間が無くなるとも言える。
また、始まりと終わりの中間とは、始まりでもなく、終わりでもないものとも言える。
つまり、非二元的であることである。

以下では、詳細を解説した。

プラーナヤーマはいずれ自然なものとなり、「無限の意識」への瞑想となり、それが絶え間なく続くとき、完成する。

いただいたサポートは、また誰かのために使わせていただきます。Be happy!