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日本で初めて和牛多頭飼いに挑戦した夫婦の物語【今週の田舎人】

こんばんは、えみです。

ブログ繋ぎ屋でも何度か紹介していますが、現在地域おこし協力隊の活動として、小林市野尻町の暮らしや歩みを残す「のじり聞き書き」本の制作を進めています。

野尻の特産物であるメロン、マンゴーに始まり、日本一に2度も輝いた宮崎牛の主力生産地の一つである畜産の取材をしています。

先日、和牛の繁殖農家として先駆者的存在のKさんご夫妻にお話を聞かせていただきました。


たくさんの語りきれない思い出を、限られた時間の中ですがいろいろと聞かせてくださり、

お二人のお話を聞きながら、まるでタイムマシンに乗って当時の情景を見せていただいているような感覚で、

ああ、私はやっぱりこういう時間がとても好きなんだなぁと、思い出させてくれました。

こんな風に、80歳を超えて、若い世代の人に話を聞きたいと言われたときに、語りたいなと思うことがたくさんある人生を歩んでいきたいな。

そのときに一緒に歩みを進めてきた人が隣にいて、

あんなこともあったね、こんなこともあったね、

と一緒に笑い合いながら話せたらいいな。

そんなことを思いました。


前置きが長くなりましたが、Kさんご夫妻の物語を一部こちらでも紹介させていただきたいと思います!


日本初の牛の多頭飼いに挑戦!農林大臣も視察に訪れる

宮崎県小林市野尻町、この辺りの地域は幕藩時代から牛馬の生産が多く、軍馬・運搬用・耕作用・堆肥用と、多目的な農用家畜として活用されてきました。

昭和30年代になり、農作業の機械化、運搬は荷車から小型トラック等に切り替わり、使役馬は少なくなり、昭和40年代には、ほとんど姿を消しました。

昭和40年、町の主な特産物は米と唐芋(=サツマイモ)でした。

でんぷんの輸入自由化で唐芋の価格が下がり、

唐芋に代わるものを模索している中、国や県の後押しもあり、肉用和牛生産の普及が始まりました。


昭和45年、和牛の繁殖モデル事業として、全国的にも例のない、牛の多頭(30頭)飼いに挑戦したのが、Kさんご夫妻でした。


「当時は、(1家に牛馬が1頭、多くても数頭が通常だった)30頭なんて絶対無理と言われていたときやったからね〜」


「それまでは麦と唐芋とか作っちょったね。ビール麦40俵、小麦60俵、1俵60キロ。今みたく機械がねがったから、近所の人に手伝ってもらって、全部人力だったからね。

こんなんしてたらいかん、って2人で話し合って、畜産農家やってみっかと」


今でこそ数十頭、数百頭と牛を飼うことは当たり前になっていますが、当時は前例がなく、もちろん教科書なんてありませんでした。

「その都度、その都度、牛と向き合いながらじゃったね」

そうやって2人で一歩ずつ取り組んだ結果、

「どんな飼い方をしているか教えてほしい」

と全国から多くの人が視察に訪れるようになりました。

「そんときは仕事にならんがというくらい忙しかった」


そして、昭和50年には、当時の安部晋太郎農林大臣(今の安部首相の父)までもが、視察に訪れるほど全国的にも革新的な事業となりました。

▲農林大臣が視察に来たときの貴重な一枚。
厳戒体制の中、道も舗装されていない田舎町に黒塗りの車17台が連なって訪れた。

続きは「ほぼ日刊繋ぎ屋マガジン」でお読みください!(お二人の写真も掲載しています^^)

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