#彼女を文学少女と呼ばないで「僕は本というものがわがままな恋人のように時々思える」
君が手にするはずだった黄金について/
小川哲
読書とは本質的に、とても孤独な作業だ。
読者は自分の意志で本に向き合い、
自分の力で言葉を手に入れなければいけない。
僕はときどき、本というものが、わがままな子どもや、面倒臭い恋人のように見える。
「僕だけを見て。私だけにずっと構って」
誰かによって書かれたテキストと、
たった一人の孤独な読者。
二人きりの時間をたっぷり過ごしたからこそ、
可能になる繋がりだ。
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「ある小説家志望の男が、
どこから湧いたかもわからない金で
フランスを旅するんだ。
聞いたことのない地名の旅先が
いくつか出てくるんだけど、
まあ全部似たような展開だ。
バーで美女に出会い、一晩を共にする。
なぜか女はすべて処女だ。
何かの象徴なのか、
セックスの最中にいつもかならず雨が降る。
ネットで類語辞典でも調べたのか、
難しい種類の雨が降るんだ。
叢雨とか驟雨とか凍雨とか屢雨とか。
読んでる間は、次にどんな種類の難しい雨が降るのか予想することだけが唯一の楽しみだったね。」
「で、お前はどうしたんだ?」
「迷ったけど、正直な感想を伝えたよ。
『セックスをすると必ず雨が降る特殊能力の持ち主が、干魃被害にあったブルゴーニュでサンデーサイレンスみたいに女とセックスをしまくって雨を降らせ、最高のロマネ・コンティを醸造してフランスワインを救う小説に変えたらどうか』って。」
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哲学者のパートランド・ラッセルは
あらゆる固有名詞が短縮された確定記述である
と考えた。
「名前とはさまざまな記述を束ねたものである」
就職活動において僕は、自分の固有名をいくつもの記述に分解していく行為を強いられている。
僕という人間と同義になるまで、
僕の特徴を列挙していく。
そうして生まれた大量の記述のうち、
どれが「企業の求める人材」という
要素と重なるかを検討する。
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クリプキはラッセルと違い、
現実とは無数の可能世界のうちの一つにすぎないと考えた。
ある可能世界では、アリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかったかもしれないし、
美梨は伊藤忠に勤めていなかったかもしれない。
もし私が伊藤忠に勤めていなかったとしても、
私という存在に矛盾が生じるわけではない。
_____その通り。
クリプキは、
固有名には確定記述を超えた何かが
存在すると考えた。
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僕はクリプキのことを思い出す。
固有名には、記述の束では回収できない余剰が存在するらしい。
本とはつまり、記述の束だ。
豊かな世界を、言葉に閉じこめる作業だ。
「よく晴れた春の朝にカーテンを開けたときの陽光」という文章、よく晴れた春の朝にカーテンを開けたときの、本物の陽光ではない。
どれだけ努力しても、本物の陽光には敵わない。
小説には、本物の世界では味わうことのできない奇跡が存在する。
百パーセント言語によって構成された
本という物体が、どうして言語を超えることがあるのだろうか______________
少なくとも、言語を超えたような錯覚を
得ることができるのは、どうしてだろうか。
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