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書店員なのに青木まりこ現象

「朝井リョウさんもお腹弱いんですって」

どういう流れでこんな話になったのか。
店内に客はひとりもおらず、換気のために開け放たれた窓からは昼下がりのやわらかな風が流れ込む。威勢をなくしたレジを離れ、カウンター奥の椅子に腰を下ろし、先に休んでいた先輩と話を続ける。

「へえ、大変ねえ。私も助手席でお腹が痛くなって、何度コンビニを探してもらったか」
「いけない状況になるといきたくなるんですよね。私はバス通勤の頃がつらかったなあ」
「すぐに降りられないものね」
「降りてもトイレがあるとは限らないですしねえ」

普段は恥ずかしくて打ち明けられないからこそ、お腹弱い談義は盛り上がる。腸の脆弱さから生れる共闘ほど強いものはない。恥じらいを捨てた私の口調にも力がこもる。

「ライブや映画もひやひやしますよね。途中で出るのは恥ずかしいし、なによりもったいない。それと本屋さんもお腹が痛くなってく」

はっとして口を閉ざす。血の気が引いていくのが自分でもわかった。マスクの中に残った熱が緩慢に逃げていく。あたりをゆっくり見渡す。四方の壁に並ぶ立派な棚、ぎっしりと収められた本、本、本。

ちょっと待て。
私、書店員だ。


いつも同じ、チェーンの古書店だった。当時、学生だった私は金がなく、20パーセントオフのセールに古本をまとめて買うのがささやかな楽しみだった。店に入るなり100円均一の棚へ。著者名順に背表紙をチェックしていくのだが、どうも「か」から「そ」あたりで、お腹がきゅるきゅると音を立て始める。じわりと背中にいやな汗。肩にのしかかる倦怠感。5分もしないうちに、備えつけのトイレに駆け込むことになる。入店するまでくだしそうな気配はちっともなかったのに!

運悪く不調のタイミングが重なっただけかもしれない。にしても、毎回起こるのはさすがに変。半信半疑で検索してみると、どうやら「本屋に行くとお腹が痛くなる」人は一定数存在するらしい。自分だけではないことにほっと一安心。原因は解明されておらず、解決策はないが、私が発症するのは古書店だけ。頻繁に利用するわけではないし、気に病む必要もないだろう。と看過していたら、卒業後、職場の最寄りの新刊書店で再び作動した。毎朝、始業前の数十分をその本屋で過ごしていたが、週に1度は途中退散。出勤前の緊張をほんの少し緩めたいだけなのに。愛すべき本屋を舞台に、小さな幸せを不意に奪い、羞恥心を煽る得体のしれない現象。理不尽で、憎たらしくて、恐ろしい。


「青木まりこ現象と呼ばれているそうです」

先輩たちの反応を見るのも気まずく、はは、と乾いた笑いをこぼして、レジに戻る。

こんな体質なのに書店で働いている事実に今さら気づいた。額ににじむ汗を拭い、動揺を抑える。今のところ自分の店で症状が出たことはない。なんならここ2、3年、現象とは無縁だ。おかげですっかり忘れて、面接に通ってしまった。

青木まりこ現象が”治る”なんてことがあり得るのだろうか。社会の荒波にもまれ、腸はむしろ弱化の一途をたどっている。7年で5度ほど胃腸炎になった。

件の書店はそれぞれ1、2度訪れたが異常はなかった。感染症流行以来、立ち寄る頻度はぐっと減り、十分なデータが取れているとは言いがたいが、急に治まるのはどうもおかしい。この数年でなにかが変わったのだ。なにかって、なんだ。思考に気を取られ、無意識のうちに指がマスクに触れる。その瞬間、稲妻のようにひとつの仮説が脳内に閃いた。

「インクや紙の匂いが原因かな?」

この体質について打ち明けると、友人たちは揃ってこう首を傾げた。当の本人は、購入後いの一番に開いたページに顔を沈め深呼吸するのを楽しみにしているほどの匂いフェチで、あの忌まわしい現象の引き金になっているなんて想像もできなかった。

だが、感染症予防でマスクをつけるようになって、症状はぱたりと止まった。紙やインクの匂いと腹痛の因果関係は証明できないが、少なくとも私個人の場合において、条件のひとつになっていた可能性はある。新刊書店より古書店で顕著に見られたのも、経年により匂いが強くなっていたからと考えれば納得がいく。フィルターがウイルスのみならず、匂いやそこに含まれる何らかの成分をシャットアウトしているのだとしたら、私は想定以上にマスクの恩恵にあずかっていることになる。

書店で働き始めたときにはすでにパンデミックだった。初めて敷地に足を踏み入れたときから、店で過ごす時間は常にマスクを着用している。その上、窓も入口扉も開放しており、風通しがいい。もし今後、流行が完全に落ち着いて、マスクを外して営業しましょうとなったら……青木まりこ現象をぶり返さない保証はどこにもない。あくまで仮説だが。


朝の支度を終え、テレビの前に立つ。マスク着用を緩和すべきか否か、きびきびと意見を述べるキャスターの声を聞きながら、ひとり入念にマスクをフィットさせ、リモコンを向ける。私に選択の余地はない。ぶちりと通信が切れる。生まれたての静寂。頼んだぞと口元を纏ったヴェールを叱咤して、今日も本屋へ向かう。


◉朝井リョウ『時をかけるゆとり』(文春文庫)

お腹が弱い同世代のスーパースター、朝井リョウさんのエッセイ集。電車の中でにやにやしてしまい、早々に外で読むのをあきらめたほど。「抱腹絶倒」と評しても誇張しているとは言われまい。第3弾エッセイの発売が楽しみ。

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