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アイデアが生まれるところ

良いアイデアが生まれるところ。
僕の場合、専ら車の運転中か、風呂に入っている時(特にシャンプーの時)が多い。
しかし、それらのアイデアをメモしておきたいが、大抵そんな状況にないから、アイデアごと忘れてしまう。
日の目を見ることなく流されて行ったモノたちの数はしれない。
手を使わずにメモすることができれば、どれだけのアイデアを救えただろう。

はたまた、机に向かってアイデアをひねり出そうと息んでみても、
奴らは顔を出してはくれない。

人との出会いも似たようなものか。
求めたところで巡り合うことなど滅多にありえない。


最高に忙しかった5月を終え、パソコンと睨み合ったゴールデンウィークを取り戻すべく、僕は焦っていた。

ここ数日、取引先とのオンライン会議でしか人と会話をしていなかった。

誰かとつながりたい。
ネットの回線を通してではなく、肌と肌を寄せ合いたいと切実に願っていた。


素敵な出会いを求めて街に繰り出す。

柄にもなく張り切ってしまったものだから、似合わない小奇麗な服を身に着けている。
服を着ているのでなく、付けていると言った方が正しい。

ちんちくりんな恰好で、気もそぞろに街を歩く。
道行く人は怪訝そうに、見るでもない視線を侮蔑とともに送ってくる。
僕はそれに気づかないほど図太くはない。
次第に浮き足立ってきて、
早くも帰り道を探したい気持ちになるが踏みとどまる。
僕は今日、出会いに来たのだ。

しばらく歩くと年季の入った居酒屋を見つけた。
引き戸を開けずに暖簾越しに覗いてみるが、先客はいないようだ。

「この店は不味いのか」
味に期待も出来なければ、出会いがあるかも疑わしい。
入るのを躊躇していると、一人の女性が駆け込んできた。

「入らないんですか?」
張りのあるその声は、僕の鼓膜の中で何度もバウンドするようによく響いた。

パンツスーツ姿で上着を腕にかけたその女性は、僕より少し若く、梅雨に入ったというのに爽やかなにおいがする。

出会った。
出会えたのだ。

「すみません、どうぞ」と彼女に先を譲り、追いかけるように店に入る。

常連だろうか。
彼女はまっすぐカウンター席の大将の前に陣取り、チューハイを注文した。

僕もカウンターの2、3席離れたところに腰を下ろす。
差し出されたおしぼりを受け取ると同時に生ビールを注文する。

ここまではスムーズだ。悪くない。
あとは声をかけるタイミングを誤らなければ、この出会いは運命に変わる。

やはり彼女は常連らしい。大将と楽しげに話している。
彼女の笑い声は軽快だ。聞いているこっちも明るくなる。

「ここ、初めてですか?」

突然、声が飛んできた。
自分の耳を一瞬疑うが、声のした方を見ると彼女はこちらを見ている。
聞き耳を立てていた耳が真っ赤になるのがわかる。

「この店、いつもお客さん少ないから穴場ですよ」
子供のような笑みで悪態をつく彼女は、はたして天使か。それとも小悪魔という奴か。
大将は、怒るでもなくツッコむでもない、呆れたような顔で「うるせえ」とだけ言った。
それを見て、彼女はもう一度笑った。

何と返事をしたかは覚えていないが、気が付けば彼女は僕の隣に座り、明るい声で笑っている。

千に一つの出会いがこのさびれた居酒屋に落ちていた。
僕は、今日の出会いに感謝した。
幸せを噛みしめるようにアテを食い、溶け出さないように酒で流し込んだ。

何度かトイレに行きたくなるが、席を立つと夢から醒めてしまう気がして、唸る膀胱を必死に抑えつけた。

いつの間にか、日付が変わろうとしている。

時計に気づいた彼女はおもむろに立ち上がり、厨房の中に入ってゆく。
僕はカウンター越しに、横目で彼女を追いかける。

彼女は無断で店のロッカーを開け、男物のカバンを取り出し、さらにそこからキーケースを出した。

「今日終わり何時?」
慣れた足取りで、厨房からこちらへ戻る途中で彼女は言った。
さっきまでの高らかな笑い声とは違い、しおらしさが混じっている。

しかし、彼女が放った言葉は、僕に向けてではない。
念のため辺りを見回すが、僕の他には誰もいない。
状況が呑み込めないままビールを呑む。

「仕込みがあるから、朝までには帰るかな」
なぜか大将が答えた。

僕はハッと我に返った。
狐につままれた感覚とはこれのことか。
さっきまでの尿意は、縮みあがったムスコとともに消えてしまっていた。

「やべっ!終電だ!」と取ってつけたようなセリフを吐く。
何も聞かなかった、気づかなかったふりをして、慌てて会計を済ませ店を出た。

ぼんやりしながら、人気の少なくなった道を歩く。
不似合いなジャケットを店に忘れたことに気づくが、
今更戻ることなどできない。
どうせ二度と着ることはないと、せめて強がってみたが余計に虚しかった。

隣に座っていた彼女との会話を何一つ覚えていない。
思い返せば、彼女が話していたのは僕ではなかった。

雨が降り出してきて、梅雨に入ったことを思い出す。

さらに大事なことを思い出した。

明日は大口案件の企画書の提出日だ。

忙しさにかまけて先延ばしにしていたので、
アイデアはおろか、リサーチもしていない。

慌てて帰り、デスクの前で頭を抱えるが
そんな時に思い出されるのは、今日出会った女の弾ける笑顔だった。

気がついたら眠ってしまっていた。
半開きのカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。

企画書の〆切りまで4時間を切っている。
こうなると、机に向かっても良いアイデアが出ることはない。

僕は車に乗って、アイデアに会いに行くことにした。

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