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哲学カフェに行った

初めての哲学カフェ。
結論、ムズムズしたけど、もう一度行きたい!
対話が足りていないそこのあなた、是非に。

初めまして、哲学カフェ

知人の絵が飾られている、とのことで
高円寺のとあるカフェに初訪問。

この頃個展によく足を運ぶようになったが、
その中で一つ気がついた事がある。

絵は描く人そのものを表す。

在廊してる作家さんをみていると、絵の雰囲気とその絵を描く人の雰囲気はそっくりそのまま。
彼女の絵もまた、彼女だった。

壁に飾られている絵をふんふん眺めていると、足元の黒板が目に入る。
書かれていてのは、このカフェで開催しているイベント一覧だった。
そしてそこにある(私にとって)一際目立つ「哲学カフェ」の文字。

ナチュールワインをいただく際に(このカフェはワインも出している!ありがたい!)よく話してくださった店員さんに尋ねる。
「哲学カフェってなんですか?」

まあ、その名の通りである。

みんなで哲学するカフェ。
言い換えるならば、コーヒーを片手に対話するカフェ。

おおおおおお!??!?!?!?!

大感動する私。そんなものが存在するのか。
趣味は「哲学をする」という私だが、お恥ずかしながら哲学カフェについては耳にしたことがなかった。

というのも、私は散々困らされていたのだ。
抽象的な話ができることを他人に求めてしまうことに。
そして投げたボールが返ってこないどころか、そのボールで誰かを傷めてしまうことに。

哲学カフェに感動した理由

物心つく頃から、答えのない問いについてよく考えを巡らせた。
全ての物事に「なんで」を突き詰める幼い私に苦労したと母が言う。

中高生のときは、思考量ママ多くを語りすぎていて「メンヘラ」をいう安い言葉で片付けられて苦しかった。

きらきらカーストが存在する集団箱で、私は私のままでいることを許されなかった。

誰も考えていない(と感じていた)ことを考える私。
私が常々普通になりたがった所以のひとつにこのあたりにある。

社会人になり、周囲も大人になることで私の莫大な思考量についてマイナスな見方をされることは随分と減った。多様性が謳われる中、周りの一定量の知性がある人間は個性を否定する自分になることを恐れてくれた。ありがたい。

それでも私は過去の記憶が体に染みているため、
私の思考の公開量は適宜調整した。
私の武器になる程度に。
私の足枷になら無い程度に。

(今書いてて気がついたことがある。
私は分かってもらいたがりなのだが、
そう思う理由は簡単で、分かってもらえなかった過去があるからに過ぎないのだな。どこまでも今の自分というものは過去の積み重ねなんだね。)

分かってもらいたがりの私が、本来のままをセーブし続けることができるわけがない。
矛先は、恋愛対象に向かった。

恋愛対象には、抽象性が高い会話と知性と読書量を求めた。
我ながらつくづく哀れである。

かっこよくて面白くて優しくても、抽象的な話ができない人のことを信用できなかった。

「そんなことも話せない人に私のことをわかってくれるわけがない」
そんな具合で心開けず八つ当たりし解散することを直近繰り返していた。


最近の恋もまた、上記理由でひと段落したのち、流石に考え始める。
抽象性を人に求めるのは間違いなのでは?

巷では「考えすぎない方法」といった類のビジネス書が平積みされているよう、“おおよそ”の人間は思考にエネルギーを使う。

反対に、私の場合は思考と呼吸はニアリーイコールなので、
エネルギーを使用しないどころか、思考しないと生きていけない。

ここまでくると、もはや別の生物。

犬は猫にこう言いました。
「ワンと鳴け!鳴かないならお前をいじめてやる!」
結局その犬は孤独を極めました、とさ。
〜fin〜

である。そんなのごめんだ。

このような経路があり、24年春、私は晴れて抽象性を人に求める縛りから解放された(つもり)。
そこから私の思考は翼が与えられたかのように、より一層自由度を増し、柔軟に、そして確信を帯びてきた。
ただ、ある側面を覗けば、私の思考が私の視点のみで完結することになる。
私はひとりよがりの暴力的概念を所持したいわけではなかった
ので、相手がいないことに少し困っていた。

今回は、そんな矢先の出来事だった。

テーマ「なぜ人は失敗を恐れるのか?」

19:15〜21:15の2時間開催。

私は5分頃に到着していたが、到着順はお尻から数えたほうが早かった。
先に会計をして、コーヒーを注文。
私は、ホンジュラスのアイスを頼んだ。(ホンジュラスとケニアが大好きだから、嬉しいー!)

一つの丸テーブルを囲み、他の参加者の到着を待つ。
最後に入ってきたのは、女性と、犬だった。

ファシリテーターの男性が、犬の参加は初めてだなあ、と笑いながら呟いていた。いや、苦笑いだったかな。

まず、メンバーが濃すぎる。

①ファシリのお兄さん(20代後半※以下推定)
②自分で仕事をするおじさん(40前半)
③自信が無い女性(20代半ば)
④自信が無い男性(20代後半)
⑤工学高校の教師(50代)
⑥中国人女性(20代半ば)
⑦アメリカ人女性 with犬(30代)
⑧全盲のサラリーマン男性(30代)
⑨わたし(20代前半)

まさかの国際的

最初にファシリのお兄さんから簡単なルール説明。
「否定しちゃだめだよ〜」とか、「発言するときは挙手してからね〜」などである。
会の性質上、対話ではなく討論に容易になり得るからだ。
他に、「読書の引用ではなく、自分の体験から言葉を選んで」というものも。これに読書好きの私はドキッとした。

ルール説明が終わると、紙が配られる。あれはA4かな。
事前に共有されていたテーマに対する、自分なりの答えやさらなる問いをそこに書いて。そしてそれを順番に発表したのちに壁に貼っていつでもみれるように、とのことだった。

今回は議論内容について省くが、私の出した答えはこうだった。
「自分が受ける愛に確信がないから」
考えるまもなく、テーマを聞いたその瞬間から浮かんだ解だった。

2時間話した末も、私自身が出した結論は変わらずだった。
だが、他の人にあまり分かってもらえなかった。

参加してよかった理由と気づき

2時間は別にあっという間という感じはしなかった。
寧ろ、一度お手洗いの際に席を立ってスマホを確認したときにまだこんな時間かあと思った記憶がある。

今回の1番の感想、それは

あんまり話せない!!!(ドーン)


というのも、人が多い。

9人で話あえば、そりゃあ私ばかり話すことはできない。

話は逸れるが、私のMBTIはENTP(討論者)とENFP(広報運動家)を行ったりきたり。この2つのMBTIの共通点は何か?
おしゃべりである。
なんなら占いでも「おしゃべり!」と言われるほど。

分かってもらいたがりのおしゃべりが、順番待ち。苦痛である。(笑)

といったように、
1番の感想がわりかしネガティブということですが、

それを上回る利点

があったので、また参加を希望しているわけ。

何が良かったかと言えば、先述した通り、「相手」がいる環境
相手がいるから、私の思考は決して正ではないと確信を得ることができた。

「自分のみが正解」と思った瞬間、
人間は「優しい」から落選すると考えている。

そして、大前提、
ここにいる人たちはボールを受け取り、投げ返してくれる。
もちろん自らが傷むことなく。

決して居心地が良いとは言えなかったけど、確実に居場所ではあった。
帰り道、こうして大人になっていくんだな、とぼんやり思い耽っていた。

もう一つ、大きな気づき。

思考は過去から形成される

何を今更、と思うかもしれないが、
ルールの通りに皆自らの経験、つまり過去をベースに自分の思考を晒すのだ。
十人十色の言葉を耳にしながら、
意見または着眼点の成分は100%過去ということをつくづく思い知らされた。
誰かの意見を聞くことができれば、誰かの過去を覗けることが証明された夜になった。


また行こう

というわけで、初めて参加した哲学カフェはそこそこ楽しく、
大変良い経験になった。

哲学カフェ(なるものは、どうやらあらゆる場所で開催されているようなので、次回はまた別のカフェに参加してみようと思う。

調べてるとオンライン開催もあるらしいけど、絶対オフラインがいいよなあ。


今日は「今日あった印象的なこと」をテーマに書きました。





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