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(小説の一部を公開しますね)

 次のミーティングまであと1時間あることを確認する。今日は珍しくミーティング続きなうえに月末なのでタスクが多い。転職してからというもの月半ばであれば毎日1時間半ほど真面目に画面と向き合えば終わる量の仕事しかないため、みなと同じように仕事をするだけでも休息が必要な身体になってしまった。
 リモートとは良いご身分で、勤務中にシャワーを浴びて週1行う米粕パックをしながら脚のマッサージをするなんて常になのである。ドライヤーで髪を乾かしたあと、キッチンにぶら下がっている小さな時計に目をやり、その後すぐチェックのバケットハットを深くかぶって家を飛び出した。トップスは、最後に君に会った時以来着る私らしくないピンクのゆるニットだ。
 
 覚えている。私の誕生日前日の昼前、こんなボサボサで電車乗りたくないなあという君に帽子借りてってもいいよ、とベッドに寝転がりながら複数帽子をかけてあるラックの端に向かって腕を伸ばし指を刺す。天窓からの日が眩しい日だった。いくつか帽子を手に取りながら、頭大きいからなあと嘆く君に、そのチェックのならメンズだからちょうどいいよと教える。それを手に取って立ち鏡の前に行き帽子を被り前髪を整える。
「かっこいいですよ、おにいさん」
私は未だベッドから動くことなく君の方に目をやりながらそう伝えたが帽子案はあえなく却下され、いつものようにキラキラの金髪丸出しで家を出ていったんだ。

 小さいカバンには小説を二冊。君を忘れられない人と称する友人の推薦図書〔二木先生〕と、主人公の女がまるで私な〔あしたはうんと遠くへいこう〕。
 お店に入り、ずっと気になっていたコーヒーゼリーと、それに合わせてお花のシロップのお湯割りを注文する。セルフサービスのお水を注いで一気に飲み干したあと、鞄に手を入れて取り出されたのは友人のおすすめとは別の方の本だった。〔二木先生〕の題材である「普通」というトピックも気にはなりつつ、なんだかんだまだ恋愛モードなのだ。私と同じように、肥大した自己愛と反比例して自分を大切にする方法がてんで分からない主人公を眺めたかったのだ。
 結構な時間が経ってからテーブルに運ばれる二品。カクテルグラスに入ったコーヒーゼリーの上にみっちりという言葉がぴったりなほどに敷き詰められていたラム酒がほんのりと香るクリーム。一通り写真を撮って思う。こういうささっと用意できそうだけど見た目が華やかなスイーツ、仕事に勤しむ君におやつとして作ってあげたいなあ。美味しそうにご飯を食べるのはどこでも私の役割のはずなのに、君も負けじと表情筋を目一杯駆使して、それはもう美味しそうに食べるのだ。今週のどこかで君のラジオを聴いていると自分のことを食いしん坊と称していた。それで、その「食いしん坊」という単語は絶対に私の会話から刷り込まれたに違いないと思った。私の誕生日を聞かれたときにこう答えたのだ。
「9月14日。くいしんぼう、で覚えるんだよ」
 ああ。あーあ。こういう何気ない瞬間に気付かされるのか。あなたと楽しんだサバゲーもスカイダイビングも君とはいけないけど、君と楽しんだお互いの家で手作り料理を振る舞うことはあなたとできないことだと。私の目の前にいたのはあなたではなく君だったのに。君にあなたを求めてしまっていたことがどんなに馬鹿らしくて可笑しくて、それでいて全く可愛げがないことに渦中の私は気づくことができなかった。

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