昔、プロ野球選手になりたかったんです。

西武ライオンズの松井稼頭央選手が先日引退発表した。
「〇〇も引退かー。昔は凄かったのになぁ。」
なんて言葉をついこの間まで親や親戚のおじさん用のセリフだと思っていたのにもう自分も言ってるなんて釈然としない気分だ。

僕も昔野球をやっていたのだが誰にも気づかれることもなく引退していたので自らここで築山弘知野球人生引退記事を書こうと思う。
という暇つぶしにどうかお付き合い頂きたい。


僕はずっとプロ野球選手になりたくて小中高と12年間野球をやって来た。
小学校6年間、中学3年間は4番キャッチャーでキャプテン、地域の選抜にも選ばれそれはそれは楽しい野球生活を歩んでいた、
中3までは絶対にプロになれると信じて疑わなかった、僕が通っていた中学は中高一貫校だったのでそのまま高校の野球部に入る事になり部活の体験に行ったとき、あまりのレベルの違いを目の当たりにし、一瞬にして約十年積み重ねて来た夢が消えて無くなっていった。


もう努力をしようとも思わないくらい完全に勝てないと思った、完全燃焼する前に消化器で思いっきり消されたような。
でも負けを認めたと思われたくなくて野球部に入部を決めた、そして自信を失ったことでの挫折、味わった事のない練習の緊張感と厳しさは僕自身のプレーにも支障をきたした。
ボールが投げれなくなった。怪我で投げらなくなったのではなくイップスといって精神的なことが原因で投げ方がわからなくなる投球障害になってしまった。それは今でも治らずキャッチボールをしても自分の投げたボールがどこに行くか全くわからない。野球も下手、メンタルも弱いことがわかってそれからは本当に野球も学校生活も全てがつまらなくなり自分が何をどうすればいいかわからなくなり人生のイップスになった。

すぐに野球部を辞めて他の事をやればよかったのだがなんせプライドが高い僕は逃げたや諦めたと思われるのがとにかく嫌で、そして野球部を辞めたら部の友達が友達で無くなってしまうかもしれないと怖くなり身動きがとれなかった。


高校野球の思い出といばレギュラーになれないとわかっているにやっていた辛いトレーニングと怖い先輩と中一の頃からずっと好きだった子を同学年のキャプテン持っていかれたことくらい、バットよりも応援メガホンを握っていた時間の方が長いし、ベンチよりもスタンドに座っていた時間の方が長い、自分が出ない試合を親が見にきて同じスタンドから応援をしたときは申し訳無い気持ちでいっぱいだった。コントかと思った。


そんな僕も最後の春、三年生のみで行く沖縄遠征(そこで結果を残した人は一気にベンチ入りできると言われている最後のチャンス)に賭けバッティングを磨き沖縄の地で最後の代打のチャンスを得た。ここで勝負強いところを見せれれば代打要員でベンチ入りできるかもしれない。野球人生全てをかけ打席に入った。
必ず初球を打つと決めていた、その初級得意なインコース高めのストレートがきて迷わずバットを振り抜いた。
真芯に当たる感覚がしてボールは左中間に真っ直ぐ飛んでいき太陽の陽射しの中に消えていった。
間違いなく高校生活最高の当たりでホームランだと思ったが外野フェンスの上段に当たり跳ね返って来た、悔しさを滲ませながら走りツーベースヒットとなった。

ホームランではなかったがいいアピールになったと監督の方を見るとベンチに監督の姿はない、スリーアウトになりベンチに戻り監督を探すとベンチ裏で電話をしていた、代表に至ってはベンチ外の木陰で休んでいた。

僕の高校野球最高の当たりは監督の目には届かなかった。おそらく電話に出ている時点で届いたところで結果は同じだっただろう。
ただその時の仲間が自分のことのように喜んでくれてベンチで迎えてくれた時は涙が出た。

そして甲子園の夢は仲間に託し応援に専念した。
結果は埼玉県大会ベスト16というなんとも言えない結果だがいい高校野球生活だった。


僕の野球人生は完全な井の中の蛙で始まり大海を知った瞬間に挫折し、プライドが邪魔をして踠き苦しみ最後はハッピーなのかバットなのかわからない結果に終わってしまった。

この自己引退記事を書きながら思ったのだが当時の自分は高校野球をやらなければよかった、バットエンドだったと思っていたが今振り返ると意外とそうでもない。
過去は変えられないというけれど未来の過ごし方で過去は変わるのではないかと思う。


いや、ただ思い出が美化されただけか、はたまた自分の人生を正当化したいだけか。


築山も引退かー。昔は凄かったのになぁー。


過去の僕に是非投げ銭お賽銭を下さい。
御拝読頂き感謝合掌。



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