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四葉のクローバーだと、思おう。


先月のお休みの日に、娘とシロツメクサのたくさん生えたところに行った。

正確に言うと、そこはもともとの目的地ではなく、家族でミイラ展にやって来たはずだった。かなり久しぶりの博物館。混雑の時間帯を避け期待を胸に入場したのに、私たちはあっという間に会場の外の、クローバーの生い茂る原っぱにいた。


***

さっきまで、娘と私は真っ暗な会場の中にいた。
暗闇で迷子にならないよう、娘の手をしっかりと握りしめて。

展示は、アンデスのミイラから始まり、エジプトのミイラへと進んでいく。その先々に、ボロボロの布でくるまれた乾いたミイラが何体も横たわっていた。唾をのみ込む回数が増える。

タマシイは体からとっくに抜け出ているはずなのに、その名残りが胸にぐんぐん押し迫ってくる。ガラスケースに覆われているはずなのに、オレンジ色のスポットライトを浴びた体のタマシイの澱みが、会場中に充満していた。


死と体。
そのふたつが結びついた感触を自在に受け流していくには、私の経験はあまりにも乏しかった。ずっと昔のタマシイが入っていた容器なのだ、それだけなのだと言い聞かせても、どうしてもそう思えない。

きょろきょろと落ち着かない視線を自覚した時、つないでいた娘の手が私の手を強く握り返した。身近な人の死を経験したことのない娘。娘の小さな心臓もまた、強く圧迫されているのを感じた。


「ママ、こわい……」

「え~、だいじょうぶだよ~」

娘の気持ちを少しでも和らげようと、笑いながら明るく言ってみたけど、私の顔も引きつっていた。

「どうしてミイラなんかにするの?」

しゃがみ込んだ娘が、涙目で聞いた。
ほんと、どうしてなんだろう。

「きっと、大事なひとだったから、ずっと近くにいてほしかったんじゃないかな」
前向きな答えを、口に出してみる。

「ミイラなのに? 死んじゃったのに?」
娘は納得していない。

当時の人々の気持ちは、私にもわからない。
生け贄だったこともあるなんて、口が裂けても言えなかった。

「あっ、見て! こっちは子どものミイラだって」
水族館で魚を見てまわるような軽い口調で、私は娘に言った。

「えっと、5歳だ。おお、○○(娘)ちゃんと一緒だね!」

黒々とした、小さな細長い物体を前に、おどけた声を出す。少しでも楽しんでほしいという、すがるような気持ちからだったが、娘の顔はさらにくちゃくちゃになり、子どものミイラから目をそらした。

そりゃそうか……。

自分と同い歳のミイラだなんて。どんな気持ちになるだろう。明らかな失敗。娘にもミイラの子にも申し訳ない気持ちになった。
子どものミイラの額には、うっすらと金が塗られていた。


「あ、こっちはネコのミイラだ。ほら!」

娘は猫が大好きなので、事前にパンフレットでネコのミイラをチェックしていた。猫が見たい、と言っていた。ガラスケースの中には、耳がふたつピンと出た、ぐるぐる巻きの長細いかたまりが立っていたが、わが家の猫とはシルエットがまったく違う。猫は横長のはずなのに、縦長に置かれている。

「これ、猫?」
娘が訝しげに聞く。
「うん、ネコらしいよ」
「なんで長いの? 立ってるの?」
「うーん。中で伸びして立ってるのかなあ」
「どうして、こうなったの? 死んだの? このまま死んだの?」
「うーん、どうしてだろうねえ……」

会場が真っ暗なせいか、何を言っても気分が暗くなっていく。


「やっぱりもう、はやく帰りたい。ねえ、出ようよう」
目尻に涙の粒が見えた。

「しー、静かにね」

もう無理だ。私はすっぱり諦め、出口を探すことにした。幼児連れの美術館や博物館は、毎度なかなか難しい。それに正直なところ、私もそろそろ出たかった。

「よし、帰ろう!」

どんどん進む。
ヨーロッパエリアでは、ぎゅっと萎んだミイラが二体横たわり、中国や日本のエリアでは、即身仏が座っていた。死後の保存のために漆を飲んで、自ら死へと向かった苦行僧。その烈々たるタマシイが入っていた姿を前に、眩暈がした。

私の受容体が受け取ったミイラ濃度は、もう完全に飽和している。

何かに追いかけられるかように、傍から見ればトイレへと急ぐ親子のように、私は娘と手をつないで足早に通路を駆け抜けた。

出口の光が見えた瞬間、ホッと胸をなで下ろす。
隣で小さなため息が聞こえた。


こうして、私の1600円は一瞬にして飛んでいった。それでも娘のなかに何か、どんなカタチであれ何かしら残るものがあったらいいなと思った。でもそれもなんだか欲ばりな気がした。


***

というわけで、私は娘と、クローバーのたくさん生えたところにいた。
夫と息子は展示をゆっくりと楽しんでいるようだった。以前はすぐに出ようと言っていた息子。こんなところにも成長を感じる。

娘は、原っぱで、白くて丸くてきれいなシロツメクサの花を探しはじめた。
私は、いつもの癖で、四葉のクローバーを探しはじめた。

うずくまって地面をじっと見つめていると、ふと、暇さえあれば幸運は落ちていないかと探しだす自分に気づいて、笑えてきた。やっぱり欲ばりだな。


ちなみに私は、めったに四つ葉に出合わない。
いつも探すけれど、見つからない。
今日も目をこらして見たけれどど、三つ葉のクローバーばかり。


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数十分間、いろんな三つ葉を凝視していて、ふと気づいた。

全部ちがうんだ。

ひと口に三つ葉といっても、大きさも太さも違うし、葉の緑の濃淡も、葉脈も、真ん中の白い輪っかの濃さも模様も、全部少しずつ違っている。枯れた部分や虫食いの箇所など、損傷もそれぞれで、まったく同じ葉というのは、なかなか見つからないものだ。こんな当たり前のことに初めて気づいた。

三つ葉か、四つ葉か。
いつも、そこにばかり気を取られて、四つ葉を見つけることに必死だった。そこしか見ていなかったから、三つ葉がこんなにも一枚一枚違うだなんて知らなかった。

キミはそこを食べられたのね。
あなたの白い輪はくっきりして綺麗だね。
あらあら、もう黄色くなって枯れそうだわよ。

三つ葉の一枚一枚に話しかけるように地面を見つめニヤニヤしていると、展示を見終えた夫と息子がやって来た。

「ママ、何してるのーっ?」
「四つ葉を探してたんだけどね、三つ葉もよく見てたら……」
「おっ、いいね! ぼくも見つけるーっ!!」

四つ葉探しの名人は、すぐさま駆け出し行ってしまった。


そして数分後。
「あったーっ!!」

息子は毎回、驚きのはやさで四つ葉を見つける。どうしてそんなに見つけられるのかと聞くと、「四つ葉が呼んでいるから」と言っていた。勝てるわけがない。

息子は四つ葉を手に、夫に駆け寄る。
夫の驚く声が聞こえる。


それにしても、私は息子の倍以上、いや三倍以上の時間をかけて探しているのに、こんちくしょう、と思いはじめる。私だって見つけてやる。謎の対抗心が燃えはじめる。


もう一度集中して、地面を凝視。
ほどなくして、私は叫んだ。

「……あ、あったぁ!!」

とうとう、私も、見つけた。
その葉っぱを手に、夫のもとへ駆け寄った。

「ほら見て! あったよっ!」

夫は、私が誇らしげに掲げた葉をまじまじと見て、ひとこと言った。

「それ、クローバー?」


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つんのめる。
やはり、そうきますか。
私も発見した時、同じ疑問を抱いた。

他よりひと回り大きいし、茎も太い。さらには四枚中三枚が、虫に食べられて変な形。もはやそういう形の葉っぱなのかとさえ思えてくる。クローバーではない? でも、一枚はきれいだし……。


悩んだあげく、やっぱり、四つ葉のクローバーだと思おう、と思った。
自分がそう思いたいから、そう思うことにした。
それにきっと、私の四つ葉のクローバーは、これくらいがちょうどいい。


***


幸せって何なのか、今もよく分からないけど、もしかしたら、自分の拾った幸せのようなものを、幸せだと思い込むことから始まるのかもしれない。

こうして考えることも、私の勝手な思い込みなのだけれど。でも、そういう思い込みからしか、幸せは始まらないような気もしたりする。


***

私は、この疑惑つきの四つ葉を大切に持ち帰り、類義語辞典のページに挟んだ。忘れっぽいので、きっと挟んだことをすっかり忘れた頃にまた開いて小さな喜びを感じるのだろう。

自分なりの幸せと呼べそうなものを、ひとつひとつ集めて、ため込んで、ときどき取りだしては、喜ぶ。いびつささえも愛おしく思う。幸せって案外、こういうものの積みかさねなのかもしれない、と思ったりする。

ささやかな気づきと、たぶん幸せのようなものを拾った、ある休日の記録。










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