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山。スナップ。日記。大岳山。

街から離れるほど、季節を濃く感じるのは必然なことだろう。その季節を纏うべく、奥多摩へと向かう。

電車で行ける且つ、直火可能なキャンプ場の存在を知ったからだ。纏う上で一晩過ごすか否かでは充足感に雲泥の差がある。

自分で生み出した火種への愛着。火を灯し続けることが生命線にもなり得るこれからの季節において、これほどの温もりや安心を実感するは街では到底叶わない。

当たり前に感謝すると言うのは大層でむず痒い物言いになるが、享受することで得るものがある一方で、失うものも確かにある。失うものは民主主義×資本主義の社会においては、それだけで生きることは難しく、片隅に忘れ去られがちである。失ってから気づく価値がある。

炎も少し見放した隙に消えてしまうことがある。
大きければいい話だが、燃料にもコストがある。
必要最低限で満足することができればこの上ない。

ただ火遊びするという行為自体に季節は深く関連していない。自然の中で過ごす時間あたりの経験がそれを纏う事へと昇華される。

火を起こし、寝食を経て行動する。これをそのままサイクルと化すことは前時代的ではあるが、現時代では希少と言える。時代を混ぜれば新時代だ。

そうこう火をいじっているうちにすっかり日は暮れ、辺りは冷気を帯びる。昼夜で顔が異なるのもこの季節故だろう。燃料が尽きるところで寝床についた。

朝の陽光を感知して目が覚めるとすっかり寝過ごしたことを自覚する。渓谷が影に入っていることが一つの要因だろうか。

荷物の朝露を払って急いで出発する。

登り始める辺りは植林になっていた。これも全時代の名残か。季節感の少ない地帯を過ぎるとこの山帯の特徴だろうか。大きな岩が現れ、落ち葉の廊下となっていた。

足元を覆う落ち葉。転落必死の岩場に過積載の荷物で挑むのも季節を纏う為である。

願掛けの一種にもなるかもしれないが、ここまでしなければ見落としてしまうような、感じそびれてしまうような気がしてならない。これに関してはプロセスが多ければ多いほど、網のようにアンテナが広がり、感知できる情報が増えていくのではないか。

美しい景色を見るとこの過程があってこそ。美味しいものを口にしても過程あってこそと思ってしまう。

再び暮れる日さえも美しく、この過程あってこそだと思える。

一方で、どこか温もりに物足りないなと多量な冷光を浴びながら街へと向かう。

季節を纏うとはなんなのか。確かに秋を全身で堪能する事はできた。という意味合いでは纏うことはできただろう。煤の匂いを纏っていたことについては断言できるのだが。

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