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それぞれの夕暮れ 1

【主要登場人物】

■ 山口 省吾 ・・・ 24才、社会人一年生。同じ会社の違う事務所の美里と出逢い、恋におちる
■ 武内 美里 ・・・ 省吾の会社のOL。25才、K市在住。婚約者がいる
■ 後藤 美恵子 ・・・ 省吾の同僚。彼氏がいるが省吾に好意を寄せる。省吾と美里の恋路の邪魔をする
■ 安西 直人 ・・・ 省吾の中学時代からの親友。K市の大学に通っている

※ この小説はフィクションであり、実在する人物、団体名等とは一切関係ありません。

【第1章】

 新宿駅を定刻に発車した「あずさ5号」を山口省吾はH市駅のホームで朝刊を読みながら待っていた。自由席のどこかに平井課長が乗っているはずである。昭和63年4月11日月曜日、午前8時半のことであった。
 省吾はこの春ある私立大学を卒業し、建設業を営むこの会社に10日前に入社したばかりであった。この日は上司である平井課長に連れられて、K市にあるY県出張所に新入社員としての挨拶に行こうとしていた。
 前週末、都心にある省吾の職場では、先輩、といっても入社が若干早いだけで、職務上は同僚になる後藤美恵子が
「Y県出張所には武内美里さんっていうとても可愛い人がいるから、ちゃんと挨拶してきなさいよ」
と、からかい交じりに言っていた。
 省吾は平井課長を見つけて横に座りながら、先週の後藤嬢の言葉を思い出して、まだ見ぬ美里の顔を勝手に想像していた。その後に起こるいろいろな出来事のほんの一部さえ気づくはずもないまま、車内販売のコーヒーを口に含んだ。

「新しく入りました山口です」
「武内です。よろしくお願いします」
短い挨拶が終わり、美里は省吾と平井課長にコーヒーをいれて、その後すぐ「銀行に行ってきます」という言葉を残して、事務所から出て行った。省吾は、いろいろ話しがしたかったのに、と残念がったが、すぐに帰って来るだろう、と思っていた。
「山口君、K市は初めてか?」
出張所の荻野課長が聞いた。
「いえ、清水町に友人がいるので車では何度も来ていますが、電車で駅を降りたのは初めてです」
「清水町と言えば、武内さんの自宅の方だな」
「私の自宅はH市の近くなので、車でも1時間で来られます。今乗ってきた特急と同じくらいです。今度出張で来るときは車で来たいですね」

 他愛のない会話が続いた後、省吾は平井課長に促されて事務所を出たが、結局その間には美里は帰って来なかった。親友がK市にいること、車で1時間で来られることなどの何気ない会話の今後持つ意味の重さを今はまだ知る術もなく、省吾はその後何度か乗ることになる特急に乗り、東京に向かった。
 省吾は電車の中で既に美里の顔がはっきりとは思い出せなくなっていた。美里と省吾の出逢いは当時はそれほどのものでしかなかった。

(続く)

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